2012年12月26日水曜日

1月6日、三重県にて「千年の愉楽」初上映!!

年の瀬、慌ただしくなってきた。
若松プロも、慌ただしさを増してきた。
来年、いよいよ、「千年の愉楽」が公開になる。
若松孝二、最後の叙事詩。
全国どこよりも最初に、
「千年の愉楽」がスクリーンに映し出されるのは
お正月明けやらぬ三重県の文化センターである。
この作品は、三重県尾鷲市須賀利という集落で撮影された。
昭和の薫りが色濃く漂う集落。
その年月を経た風景の存在感が、作品に大きな力を与えた。
監督は、感謝の気持ちを現したくて
まず三重県で先行上映会を行うことにこだわった。
今年の夏、監督自ら三重県知事に直談判しに行き、
その場で決めた上映会だった。
先行上映会の概要は以下。
1月6日(日)三重県総合文化センター(JR津駅近く)にて
10時/13時30分/17時
当日券のみ。1000円。
(※9時30分開場と同時にチケット販売開始予定)
当日は、高良健吾、高岡蒼佑、佐野史郎、井浦新が挨拶に立ち
各回の上映後にトークイベントを行う。
初回上映後には、三重県知事の挨拶も予定されている。
全国最初のスクリーン上映、
監督は、観客の前に立ったら、どんな挨拶をしたのだろう。
監督が「千年の愉楽」上映後に観客と会話を交わしたのは
湯布院映画祭とベネチア国際映画祭の2回だけだった。
そのときの様子を、佐野史郎、高良健吾、高岡蒼佑らから
聞きたいと思う。
いずれにしても、監督のまなざしは、作品の中に焼き付いている。
それを、ロケ地三重で、お客様とともに目撃するのだ。

2012年12月25日火曜日

安吾賞、バンザイ!

12月20日、ホテルニューオータニの宴会場にて
「安吾賞」受賞者発表会なるものが開かれた。



紛らわしいが、授賞式とは違う。
受賞者が決まりましたよ、という発表会であるという。

監督の生前、「安吾賞が贈られます」との通知が届いたのは
残暑も落ち着いて来た頃だっただろうか。
名前は知っていても、読んだ事もない作家の名前の賞。
「何で俺に?」とぽかんとしていた監督。
とはいえ、漏れ聞こえてくる安吾にまつわる様ざまに
面白そうだな、と満足げだった監督。
受賞を目前にして、いきなり逝去してしまったけれど、
審査委員満場一致で、予定通り若松孝二に、という運びになったという。

冒頭、新潟市長が「生きざま賞ともいうべき賞は
若松孝二さんにこそふさわしい」と挨拶を述べ、
続いて選考委員長の三枝成彰氏が登壇し
「若松さん一貫して立ち位置が変わらなかった。
 金があるとうまくいかないと言っていた通り
 なるほど、そうなんだろうな、という時もあり
 大金をもらって時に失敗するというかわいらしさもありつつ
 向かう方向は常に曲げなかった。
 反社会的なまなざしを保ち続けた若松さんは
 この賞を絶対にもらわねばならなかった人だ」と語った。

こうした冒頭の挨拶を受けて、壇上で言葉を述べるべきは
本来であれば監督本人であるが、監督はもういない。
そこで、若松孝二に替わって
長年、若松作品に出演し、監督と深くつながり
新作「千年の愉楽」にも出演している佐野史郎が登壇した。

開口一番「まだ、亡くなった気持ちがしない。
現場での感情が思い出されてしまって
監督と飲みたくなってしまった」と佐野。
「ウソをつくな、フリをするな、本気でやれ、と迫り
ぬるくなるとすぐ見抜かれた」と監督の演出を語り、
監督との最後の時間となった、今年8月の湯布院映画祭を振り返った。
「あれが、サシで飲んだ最後になった。
 旅館の同じ部屋に泊まって、夜中までエチュードのように
 芝居のレッスンをつけてもらった、夢のような時間だった」

「監督と並んで座ると双子のようだった中上健次さんは、
優劣で区切ろうとするものや権力にいかに立ち向かうかという
監督のポリシーと重なっていた。
この作品は、中上作品なんだけれど、若松さんの眼差しでもあり
そこを行ったり来たりしている面白さがある」と
新作「千年の愉楽」の事を語った後、
監督が「クマ、クマ」と愛情込めて呼んでいた
鉄のゲージツ家・KUMAこと篠原勝之もステージへ。




監督を「アニキのような存在」という篠原は
冒頭から、等身大の若松孝二のエピソードを次々披露。
「死んじゃうと、なんでもかんでも、いい事ばっかりに
 なっちゃうからネ」と言うと
佐野史郎も深くうなずく。
「クランクアップ後、感情をどうしようもできなくて
 ベロベロに酔っぱらって、「若松を殺す!」って
 新宿中を捜し回ったりね。で、翌日にはその情報が
 監督の耳に入っているという」
「俺は、若松さんには、あと3本くらいは撮って欲しかったよ。
 あっちにいっちゃってても、いいよ、
 映画を撮りにこっちに帰って来られるならば」
と、二人は監督へのラブコールを送りつつ、
監督たちとのゴールデン街での下ネタなども披露し場内を沸かせた。

最後は篠原が「俺はね、監督が死んでからずうっと
ここ(胸)のあたりがモヤモヤしてるの。
だからね、もう、吐き出したいんだよ」と言うなり
マイクを床に置いて、「バンザーイ!」と叫んだ。
つられて、会場中がみな、両手を高く差し上げて
「バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」



みんなで万歳三唱をするとは思わなかった。
胸の中につかえたモヤモヤは、思いがけないバンザイでも
スッキリすることはなかったけれど
しかし、美辞麗句を語りはしない、佐野、篠原の二人が
監督の写真の前で、その思いのたけを伝えようとしてくれた
その事が、心底嬉しかった。

安吾賞の正式な授賞式は、来年2月23日、新潟市内にて。

2012年12月18日火曜日

満島真之介に報知映画賞新人賞

本日、プリンスパークタワーホテルのコンベンションホールにて
第37回報知映画賞の授賞式が行われた。

「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」で
森田必勝を演じた満島真之介が、新人賞を受賞した。
この喜ばしいニュースが若松プロに飛び込んできた時
監督はすでに、この世にいなかった。

満島真之介は、この作品が映画初出演だった。
ロケの現場では、最初から最後まで、監督に追い込まれ続けていた。
「幼稚園児みたいな芝居をするな!」「役者やめちまえ!」
「なんで、そんなことができないんだよ!もう二度と使わねえぞ!」
「お前のせいで、どれだけ損してると思ってるんだ!」
衣裳を着ていれば「いつまで着ているんだ!」と怒り
衣裳を脱げば「なんで脱いだんだ!」と怒る。
どうしてそこまで……というほど、真之介を追い込んだ。
普段、撮り直しを極力嫌う監督が、何度も何度も真之介にやり直させた。
頭の中を真っ白にさせて、追いつめ続けて、あの森田必勝が生まれたのだ。


新人賞の発表とともに、本編の映像が流れた。
サウナで、三島に決起を促す森田の顔がスクリーンに映し出された。

その後、壇上に立った真之介は、
「久しぶりに、監督が撮った自分の顔を観ました……」
そう話した瞬間、真之介の顔が崩れそうになった。
現場でたたきのめされた時間、完成した作品を持ってともにカンヌへ行った時間。
真之介の頭の中に、監督との膨大な時間が瞬時に甦ったに違いない。
しかし、すぐに気持ちを立て直し、真っ直ぐ前を向き、
現場での監督がいかに怒りに満ちていたか、
そして出来上がった作品と監督への思い、
監督から受け取ったものについて語った。
続いて、お祝いのコメントを述べるべく、
共演者で若松組の先輩である大西信満がマイクを握った。
「今、ここにいる誰よりも、そして真之介のご両親よりも
 誰よりも喜んでいるのは、間違いなく若松監督のはずだ」

この華やかな祝宴の席に、若松孝二の姿がいないことに、
一瞬、途方に暮れる。
しかし、若松孝二の現場で、その檄を浴びた俳優たちが
今、壇上で、きれい事でも美しくまとめた言葉でもなく
ただ剥きだしの感情を、そのまま監督に向けて差し出している姿が
本当に嬉しかった。

2012年12月17日月曜日

若松孝二は生きている。キネカ大森トーク3時間

15日(土)からキネカ大森で始まった
「若松孝二 追悼を越えて」特集上映。
初日の夜、「海燕ホテル・ブルー」と「11.25自決の日」
二本立て終了後、井浦新、地曵豪、大西信満、
辻智彦(キャメラマン)4名によるトークイベントが始まった。

監督と共に行った国内外のイベントの思い出、
海外における若松孝二作品の受け止められ方などを
訥々と語り始める4名。
客席からは「三島で記録映像を多様することで
若干物足りなさがある。予算的な問題のためか」
「総選挙前夜のこのイベントは、非常に旬。
三島や連合赤軍など演じて思想的な影響は受けるのか」
といった質問が飛び出す。
右も左も関係なかった若松孝二の作品への姿勢。
常にあった「対権力」という姿勢。
イデオロギーではなく、個として
演じる対象に向かっていったキャストたち。
言葉が次々と語られていった。
途中で1時間のメイキング映像を見ながら
キャストやキャメラマンが語る生オーディオコメンタリーも。
時に罵倒されるキャストやスタッフ、加速していく若松孝二。
それを共に見つめつつ、当時を思い返し、言葉を挟む。
「これ、当日の朝に打ち合わせしたことが、現地に行ったら
 監督の頭の中で、何もかも変わっていたんです」
「あさま山荘にみたてた監督の別荘を最初に壊した瞬間
 監督、すごく不機嫌になったんですよ、予測はしてましたが」
現場での監督は、ほとんど常に理不尽で、言葉足らずで、
時にみんなを置き去りにして暴走していこうとする。
その背中に、追いつこうと必死になればなるほど
若松組の現場は加速していくのだ。
メイキングを見終わった後も、ティーチインは続いた。
「海燕で演じた3人の男は、それぞれ、自分の内側にあるものなのか」
「監督と飲む時、どんな話しをしていたのか」
「ほかの現場にはない、若松組ならではのエピソードは何か」
次々と、客席から手があがる。
「自分の内側にないものは演じられないから
 それは、どこかしら、自分の中にあるものを
 デフォルメして演じてるのだ」と地曵が言うと、
「いや、そんなこと、あるわけないでしょ、
 あの警官の言動、僕の内面とどこも一致しませんよ」と
大西が返し、場内が沸いた。
「海燕は特別な現場だった。三島が終わった後
 アラタ、遊ぶぞ、と声をかけてくれたのだけど
 本当に、こっちが本気でやればやるほど
 監督は嬉しそうに笑ってたんです。
 監督の笑い声が基準になっていた現場は海燕だけ」
と井浦が海燕のロケの特殊性を話すと
地曵が
「三島とレンセキの、いろいろな要素をはずしたら
 海燕になる、と言った人がいたんだけど
 なるほどな、と思った。
 監督はずっとずっと、真面目に一生懸命なんとかしようと
 もがいていって、でも、どこにもたどり着けずに
 破れていく存在を描いてる。
 それは、今の時代、どうにかしたくて、どうにかしようとして
 それでも、どうにもできない、というような
 その閉塞感を、ずっと描き続けていたんだろう、と」
レンセキや三島と全然違うようにみえる「海燕」も
実は、若松孝二が50年間の監督人生で執拗に描き続けたテーマの
延長にあったことを語った。
若松孝二と飲んだ時の話題の話しをしているとき
「監督は、映画マニアじゃないんです。映画をつくることが好きなんです。
 だから、飲んでいる時も、次ぎに何が撮りたいとか
 そういう話しをしてます」
「こういうシーンはどうやったら撮れるかな、といった話しもしますね」
と、次々と語られる若松孝二の姿は、全て現在進行形になっていた。
「スタイリストもなく、メイクもなく、役者に自分で衣裳を探させる。
 若松監督のそのやり方は、予算の問題ももちろんあるけれど
 それ以前に、役者を、そこまで対象にアプローチして
 考えていかなければならない状況に置くということ」
「考える前に全てが用意される現場も少なくないけれど
 ものを作るという意味で、どちらがスタンダードかと考えると
 後者は、ごく最近できたものではないか」
3時間、あっという間だった。
話しは尽きなかった。
若松孝二の姿は見えないし、声は聞こえなかったけれど
話しの端々に出てくる、現在進行形の若松監督のエピソード。
若松監督は、生きている。
時折、耳にしていたその言葉の意味が、
少し腑に落ちた。
監督は、どんな逆風が吹いている時でも、
自分でできることを、地道に続けてきた。
晩年は華やかな舞台が多くなったが、それはほんの数年のこと。
持ち上げた世の中が手のひら返すこともたくさん見て来た。
それだけでしかないのだと、冷静だった。
だから、今の選挙結果には仰天しつつも、
怒りを忘れずに、続けて行けばいいだけだと、監督は言うだろう。
キネカ大森イベントは今月28日まで。
その後は、監督も大好きだった
「旅芸人の記録」を年末年始に上映するという。

2012年12月11日火曜日

若松孝二が愛したオリュウの眼差し

「千年の愉楽」のポスターやチラシを、絶賛配布中である。

監督がこだわり愛した、オリュウの表情が中央にある。
路地を見つめるオリュウノオバのこの眼差しに
監督は執着していた。
来年1月17日のテアトル新宿での先行上映会には
高良健吾、高岡蒼佑、佐野史郎、井浦新らとともに、
オリュウノオバ演じた寺島しのぶも舞台挨拶に立つ。
「新藤監督と乙羽信子さんのように、ずっと一緒に作品をつくりつづけたい」と
クランクアップ後に語っていた寺島しのぶ。
そのコメントを読み、満足げに笑っていた若松孝二を思い出す。
現在、新・文芸坐では、連日、多彩なゲストを招いて
若松孝二レトロスペクティブが進行中。
それぞれの中に刻まれた若松孝二を、各ゲストが
ときに辛口に、しかし情熱をもって語っている。
今週末からは、キネカ大森にて近作上映が始まる。
そして、来年1月6日には、全国どこよりも先に
ロケ地三重にて「千年の愉楽」がスクリーンに登場する。
1月6日(日)
三重県総合文化センター(多目的ホール)
10:00/13:30/17:00
各回上映後に、キャストのトークイベント(1時間)あり。
登壇キャスト:高良健吾、高岡蒼佑、佐野史郎、井浦新
入場料:1000円
※前売り券の販売はありません。当日券のみ。

2012年12月6日木曜日

12月15日からキネカ大森近作上映スタート!

追悼を越えて、進んでいく。
次々とつながる、「追悼を越えて」イベントの波。
12月15日(土)から、キネカ大森にて
監督の近作4本の特集上映が始まる。
最初の週は「11.25自決の日」と「海燕ホテル・ブルー」
異色の2本立て。
15日初日は「11.25自決の日」上映終了後に
キネカ大森名物のお客様参加型の「しゃべり場」方式の
トークイベントが行われる。
井浦新、大西信満、地曵豪、辻智彦(キャメラマン)らが参加予定。
井浦は、22日から始まる箱根彫刻の森美術館での写真展準備中に
時間を捻出して駆け付ける。
お客様の前で、作品を見せて、直接話しをする。
その事を、極力大切にしようと、コツコツ劇場に足を運んでいた
若松孝二の志を継ぐべく、参加を決断した。
空を切り裂くような冷たい空気の師走にも
みんなの足取りがせわしなくなる師走にも
若松孝二の熱を、味わう夜がやって来る。
しかも、都知事選と衆院選ダブル選挙の前夜でもあり…。
監督、きっと、今のこの混戦模様を見ながら、
マスメディアの発表する世論調査に
バカヤロー!と歯ぎしりしていることでしょう。

2012年12月5日水曜日

若松孝二の笑顔と特別功労賞

若松プロの4階は、賑やか好きの監督の意向で
掘りごたつ風のしつらえになっている。
四季折々に、人が集まり、酒を酌み交わし
ベランダの向こうの御苑の緑や、
さらに向こうに神宮の花火などを眺めて楽しむ。
今、そこには、監督の大きな遺影や
これまで貰ってきたトロフィーや
監督の好きなビールなどが並んでいる。
(ほんとは焼酎水割りを置くべきか?)
そして、ここに並ぶトロフィーが、先日一つ増えた。
全国興行生活衛生同業組合連合会(略して全興連)が
若松孝二に、全興連特別功労賞を授与したのだ。
監督は、映画を愛し、身銭を切って映画を創り
自分の足で歩いて劇場でフィルムをかけた。
「決まったやり方なんて、ないんだ」と
70歳を過ぎても、毎回新しいやり方を考えて挑戦し
時に成功したり、時に失敗したり、失敗しても
「ダメで元々じゃねえか」といって、次の挽回を狙った。
功績を労る、という賞は、確かに監督にふさわしい。
特別功労賞のトロフィーを見下ろす遺影の中の監督は
上々の笑顔を浮かべていた。

(真ん中は釜山映画祭の手形。上述のトロフィーは右。
 ベルリンで銀熊を受賞した時の監督の映像のフィルムが入ってる)
監督、おめでとうございます。
いよいよ、今週末から、
新・文芸坐にて若松孝二レトロスペクティブが始まる。

「千年の愉楽」テアトル新宿にて先行上映!

いよいよ、来年1月から全国各地で
「千年の愉楽」の先行上映がスタートする。
若松孝二の、最後の歌が、各地のスクリーンに流れる。

全国どこよりも早く、上映を行うのが
1月6日(日)三重県津市の総合文化センターにて。
「ロケ地の三重に、真っ先に作品を見せたい。
なんでもかんでも、東京中心ではなくて」
と願っていた監督の思いを継いで
メインキャストも挨拶に駆け付ける。
こちらの上映会の詳細は近日中に告知予定。

そして、都内での先行上映会は
やはり監督が一番愛した街、新宿にて。
1月17日(木)の夜、テアトル新宿にて。
18時40分と21時20分、2回上映し、各回上映後に
高良健吾、高岡蒼佑、佐野史郎、井浦新らが舞台挨拶を行う。
(登壇ゲストはさらに増える可能性あり)

最後の瞬間まで、次の作品の構想で胸を膨らませて
前に前にと歩いていた若松孝二。
その監督の、最後の現場を、ともに走り抜けた仲間たちが
監督不在の今、作品を送り出すために再び集結する。
現場での、瞬間瞬間の積み重ねのような監督との日々。
作品の中に監督が込めた思い、自らの思い。
それら思いのたけを、集まったお客様と共有するために。

2012年11月24日土曜日

エンジンが温まった夜

昨夜、時折冷たい小雨が降る中、
「追悼を越えて」第一弾「若松孝二in新宿」
オールナイトイベントが始まった。
早めに劇場入りすると、ロビー奥の黒いソファが目に入る。
いつも、ほぼ先乗りしている若松監督の定位置だ。
昨夜は、そこは空席。
22時30分「死にたい女」上映が始まった。
1970年11月25日。三島由紀夫と森田必勝の割腹自殺を
信濃町のホテルで知った若松監督と足立正生氏。
当時書いていた脚本をとりやめ、急遽書き上げられたのが
「死にたい女」である。
裸の女の上に順々に被さっては走り去っていく褌と鉢巻きの男たち5人。
いきなり流れるウェディングマーチ。
いきなり怒涛のごとく流れていくスタッフキャストのロール。
「死にたい」男と女、「死におくれた」男と女、
取り残された楯の会の若者かもしれないと匂わせる
若者のぐるぐる自家中毒。
若松孝二と足立正生がゲラゲラ笑いながら映像で遊び倒した
その様が見えてくるようで、それでも
「生きる」も「死ぬ」のも、見える風景はそんなもの、という
そんな乾いたジリジリ感が、荒削りの映像にしみ出していて
暗闇のスクリーンで、たっぷり監督と遊ばせてもらった78分。

その後は、若松監督の「盟友」という枕詞が定着してしまった
足立正生氏と、映画研究者の平沢剛氏のトークが始まった。
「バカや冗談を言い、罵りあいながら、
 映画を通してどう生きるかを、さいごまで考えていた。
 近年は俺が書いた脚本を、「くっちゃべる映画は面白くない」と採用せず
 でも、培ってきたものを、そのまま映画にし続けて来た。
 彼は常に、自分が苦労してきた生き様を、その「自負」を
 自分の作品の確信にしていたのだろう」
これまで、若松監督と一緒に登壇する足立さんしか、見たことがなかった。
そういう時の足立さんはいつも、辛辣な言葉で
若松孝二を挑発したり、からかったりしていた。
それがこの夜は、マイクを握り、前を向いたまま、淡々と言葉を語る。
「通常の独立プロは、その監督の作品を作るためのプロダクション。
 若松プロは、若ちゃんは、すぐに「お前、脚本かけ」「お前、監督やれ」と
 関わってきた奴らにチャンスをつくり、配給に頭を下げてやってきた。
 若松という人物を場にしながら、ワイワイやっていたんだ。
 撮影現場では独裁的で、天気が悪いのも足立のせい、となるが
 企画を考えるような時は、本当に誰ともヒラに付き合い
 意見を聴き、決してお高くとまらない、特殊な人だった。
 罵り会う相手がいなくなると、
 大きな空洞、という以上のものがあるんだ」と話した。
前衛的な、攻撃的な、作品の匂いは、時代とともに変われど
「作る」=「生きる」であった若松孝二の芯は
50年間の監督人生において、何ら変わらなかった事を
足立さんの語る言葉の隅々から感じることができた。
「自分が死んでも映画は残る、と若ちゃんは言ってきた。
 その都度、時代の中で評価も見方も変われど、
 彼がずっと柱にしてきたのは、生きるための根性で
 それは、意外かもしれないが、彼のまじめさにあったんだ」と
足立さんの言葉の一つ一つが、すべて、腑に落ちていくトークpart1となった。
続いて、「連合赤軍」から「千年の愉楽」までの
5作品のロケ現場の「若松孝二」凝縮の「メイキング」上映。
連合赤軍撮影時の若松監督が、やはり尋常ではない
燃え上がり方をしていたことが、改めてスクリーンに映し出された。
そして後半は、近年の若松組常連キャストスタッフトーク。
井浦新、大西信満、地曵豪、渋川清彦、岡部尚、満島真之介、辻智彦(キャメラ)
7人が、客席の最前列にずらりと並んで立ち、
自分たちの中の若松孝二、現場や日常遭遇した若松監督とのエピソードを
さまざま披露。
司会は急遽、大西信満が担当し、若松組らしい、
等身大でお客様の前に立つトークイベントとなった。
出てくるエピソードエピソードに、客席からは笑い声が。
まさしく「追悼を越えて」いく、イベントとなった。
確かに、若松孝二は、たくさんのものを産み落としていった。
スクリーンに映し出される若松監督の顔、手、頬、背中。
それらの肉体はなくなれど、確かにたくさんの手触りが残っている。
エンジンが、静かに温まった夜だった。

2012年11月22日木曜日

いよいよ明日、テアトル新宿にて!

まもなく師走である。
慌ただしい年の瀬に、都知事選と衆院総選挙。
いつのまにやら、争点が、金融政策にスライドしている。
物価上昇率?建設国債?
今、向き合うのは、そこじゃないだろ!
監督のツッコミが聞こえてくる。


明日の夜、久しぶりに、若松孝二と
ゆっくり語り合える時間がやってくる。
「追悼を越えて 第一弾 若松孝二in新宿」atテアトル新宿。
22時15分開場 22時30分開演

「死にたい女」「11.25自決の日」2本の本編上映に
トークpart1「映画監督・若松孝二を語る」足立正生、平沢剛
トークpart2「現在進行形の若松孝二」井浦新、満島真之介
大西信満、地曵豪、岡部尚、渋川清彦、辻智彦
「メイキング」(近作5作品)上映と、
週末、朝5時まで、どっぷりと若松孝二に浸る一夜である。

その場に、なぜ、若松孝二がいないのか、ということが
まだまだ腑に落ちないのであるが、
とにもかくにも、追悼を越えていかねばならないのである。

2012年11月20日火曜日

若松孝二に安吾賞

昨日、新潟市の発表にあったように
この度、若松孝二監督に、安吾賞が贈られる。
これは生前から決まっていた事で、
9月に受賞の知らせを聞いた監督が、
「文学的でない僕に、安吾賞って不思議だなあ。
 でも、堕落論だろ。戦後のあの時代に、あんな事言って
 世の中をあっと驚かせた安吾さんの賞を、
 もらえるなんて、嬉しいね」と子どもみたいな笑顔を
浮かべていたのを思い出す。
戦後、それまでの価値観が崩壊した中で、
理性と理屈で良いと考えてた諸々から
全て崩れ落ちて、そこから出発だ、と考えた坂口安吾。
方や、もとヤクザ、拘置所に半年、といった前歴を持ち
「時間は守る」「掃除をする」「ご飯を残さない」
「うどんをよそう時は小皿を鍋の縁より下に」……などなど
挙げたらキリがないほど、小さな一つ一つを大切に
誠実にやることを重んじて、地道な積み重ねを続けて来た若松孝二。
逆といえば逆だし、何か通じるといえば通じるのだ。
いずれにしても、監督は、「素直に嬉しいよ。
安吾賞受賞のお祝いと僕の喜寿祝い、一緒にやろうか。
いや、まずは家でモツパーテーするか」等々
楽しい事をあれこれ考えて、心弾ませていた。
その楽しい瞬間を思い出し、
監督は、どこまでもシンプルで、それ以上でもそれ以下でもないところを
実にそのままさらけ出していたなあ、と思い返し、
だからこそ、監督の背中を見つめ続けていた井浦新が
さらに満島真之介が、ああして、多摩映画祭でも
監督の事を、嬉しそうに、大切そうに、話しをするのだろうと
改めて思うのである。
安吾賞の都内での発表式は12月20日。
監督と関わりも深く、新作『千年の愉楽』でも
礼如役として若松組の要の存在感を発揮した
佐野史郎が登壇する。

2012年11月19日月曜日

若松孝二と井浦新の背中

第22回多摩CINEMA FORUMにて、
「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」
森田必勝を演じた満島真之介が
最優秀新進男優賞を受賞した。
そして昨日、ベルブ永山のホールにて、
「11.25自決の日」の上映と井浦・満島のトークが行われた。
満員の場内には、遠くは大阪から見えたお客様も。

そして、思わぬ交通渋滞により井浦の到着が遅れ
満島一人でトークがスタートした。
「受賞の知らせを聞いて、監督からすぐに電話をもらった。
良かったな、と喜んでくれました」と、初の一人でのトークに
緊張しつつ話し始めた満島。
新宿の古い喫茶店に、破れたシートの自転車にまたがって
現れた若松孝二との初めての出会いの衝撃を語った。
「ユマニテの社長とばかり話していて、僕の方を
ほとんど見ないんです。だけど、時折僕をちらっと見る
サングラスごしの一瞬の目が忘れられないんです。
監督から言われたのは「髪を切れるか?」ということと
「自衛隊に訓練に行けるか?」という2つだけで」
一体、なんで自分に決まったのかすらわからずに
現場がスタートしたのだ。
そうだ、誰もが、いつも、状況がよくわからないままに
まずは走り始めるのが若松組である。
走り出しながら、人間の中から、なにものかを絞り出すのが
若松孝二だったのだ。
そして、初めての劇映画の出演が、若松組だったという満島の
悪戦苦闘の日々が始まったのだった。

…と、あの日々を思い返して語っている間に
井浦新が到着、「遅れてすみません!」と会場に入るや
拍手がわき起こった。

ロケ中は、監督の「バカヤロー、やめちまえ!」
「幼稚園生みたいな芝居するな!」という罵声を浴び続け
何も考えられず、ひたすら監督と井浦の背中だけを見つめ続けていた
という満島に、新は
「真之介は、僕が若松組の現場を見た中でも
最も強烈に追い込まれ続けていて、羨ましいほどではあったけれど
監督から同じく檄をもらった者として、
彼の精神状態はわかれど、助け船を出すことはできない。
ひたすら、真っ青な顔になっていく真之介を見守り続けた」と
当時を振り返った。
井浦自身も、監督との出会いとなった『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』に
出演することになった経緯を語り、
「監督が連合赤軍を撮る、その事自体が事件だと思った。
 役者としては参加できずとも、現場の最前線に存在していたいと思った」と
監督に「スタッフでも何でもいいから、現場に行かせて欲しい」と
直談判した胸の内を話した。




「若松孝二」が、今、トークの場に座っていない現実が
今や、当たり前の事として動き出している。
ホールのロビーには、過去の映画祭の受賞者たちの写真が
並んでいた。
2010年、「キャタピラー」で新進男優賞を大西信満が、
最優秀女優賞を寺島しのぶが、特別賞を若松孝二が受賞し、
3人の写真が何枚も並んでいた。

時間は、とどまる事なく、さらさらと流れ続けて行く。

監督がいた時間があり、監督がいなくなった時間が流れ、
しかし、井浦や満島ら、一人一人の存在の中に
若松孝二がしっかりと刻み込まれ、作品の中にも若松孝二が生きている。

そのことを引きずって、覚悟して引きずっていくしかないのだと
井浦の眼差しが、教えてくれた。

いよいよ、今週23日(金)には、テアトル新宿にて
「若松孝二 追悼を超えて」の第一弾、オールナイトイベントが始まる。

写真は、上映終了後、若松プロ恒例となった公式ブック販売に
並んで下さるお客様たちの長蛇の列。

2012年11月12日月曜日

1年前の今頃は「千年の愉楽」ロケ佳境

思い出す。
ちょうど一年前の今頃は、三重県尾鷲市の須賀利で
めまいがするような濃密な空間の中で
無我夢中で「千年の愉楽」のロケを進めていたことを。

晴れると、尾鷲湾に太陽が照りつけて、
路地の斜面にも陽射しが降り注いで、
暑いほどだった。
ナイトシーンの撮影の必要がある時以外は
撮影はたいてい、夕方4時頃には終わった。
尾鷲湾の向こうに日が沈むと
すうっと気温が下がって肌寒くなる。
翌日のスケジュールを確認し、衣裳を確認し終わると、
真っ暗な海沿いの道、集落に2軒だけある民宿まで
歩いて帰ったものだった。
監督は、毎日毎日、階段だらけの路地の中で
上がったり降りたりを繰り返しながら
新しいシーンを生み出し続けていた。
地元の婦人会「おんばんの会」が作ってくれるお弁当は
イカの刺身やら、焼き牡蠣やらまであって
ロケ最中のお楽しみだった。
監督、夢中で走った日々でしたね。
もうすぐ、この作品の公開が始まりますよ。

11月18日(日)多摩映画祭にて!

「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」は
監督がいつも語っていたように、
「実録・連合赤軍」と対をなす作品である。
あの、激動の時代とは何だったのか。
若者たちを、情熱のままに疾走させたものは何だったのか。
かたや、同志粛清の果てにあさま山荘の銃撃戦へ。
かたや、自衛隊との訓練を経て、自らの割腹へ。
そして、「三島由紀夫」個人の物語ではなく、
あくまで、三島由紀夫という稀代の人物と出会い、
三島自身の命、そして己の命を、突き進めないとわかりつつ
突き進んでいった、その様である。
三島と共に割腹した学生長・森田必勝を演じた
満島真之介が、この度、多摩映画祭で最優秀新進男優賞を受賞する。
クランクインからアップまで、連日監督の怒声を浴び続けた満島の
渾身の演技が評価された。
18日(日)には、ベルブホールにて、
「11.25自決の日」上映と、井浦新、満島真之介のトークイベントが行われる。
http://www.tamaeiga.org/2012/program/013.html
登壇予定だった若松監督の「心」を視聴者に伝えるべく
井浦らが、壇上に立つ。

2012年11月9日金曜日

「追悼を越えて」第二弾、決定! 新文芸坐にて。

「逝去」「享年」「追悼」「故人」
これらの言葉と「若松孝二」が
いまだにつながらないまま
「追悼を越えて」第二弾が走り出した。

若松孝二in池袋
Underground&Independent1966−1979
12月9日〜14日 池袋・新文芸坐にて。

「餌食」「聖母観音大菩薩」から「犯された白衣」
「ゆけゆけ二度目の処女」「新宿マッド」そして
「赤軍-PFLP世界戦争宣言」「天使の恍惚」まで
60年代70年代の若松作品を一挙に12本、上映する。

毎回、様ざまなゲストが登壇予定。

若松孝二は、フィルムの中で、今も、怒りの歌を歌い続けている。

追悼を越えて 若松孝二in池袋
詳しくは、新文芸坐のHPにて近日告知。

2012年11月7日水曜日

「千年の愉楽」公開決定!2013年3月9日全国公開。

今月23日にテアトル新宿で行われる
「追悼を越えて 若松孝二in新宿」オールナイトイベントを皮切りに
12月9日〜文芸坐にて
12月15日〜キネカ大森にて
監督の旧作・近作の特集上映が「追悼を越えて」part2、part3として
次々にスタートする。
そして、最新作『千年の愉楽』の全国公開が
来年3月9日に決定した。
都内はテアトル新宿にて。
この全国公開に向けて、さらなる「追悼を越えて」の思いをつないだ
各地でのイベントが予定されている。
若松孝二は、私たちに、立ち止まることを許さない。
現場では、キャストの演技にダメだしをしながら
後ろ側でもたつくスタッフのわずかな動きも見逃さなかった。
頭の後ろにも目がついているのか!?というような若松孝二の眼力。
ヒリつくような現場の緊張感が、今も皮膚に生々しく蘇ってくる。

そうだ。追悼を越えていかねばならない。
「千年の愉楽」という、監督人生最期の大勝負を
きちんと、やり遂げねばならないのだ。

2012年11月2日金曜日

追悼を越えて! 若松孝二in新宿、始動!

めそめそし続けるわけにはいかない。
若松孝二の背中は、もう遙か先にある。
追いかけていかなければ、ならない。
歩かなければ、ならない。

「映画に時効はない」が口癖だった若松は、
「怒りが俺の映画作りの原動力」
「俺が死んでも、作品は50年、100年と残るんだ」と、
作品で世の中に勝負を挑み続けていた。

来年3月の『千年の愉楽』公開に向けて、
新宿及びその周辺で、「追悼を越えて」と銘打って、
今後、各劇場での特集上映や『千年の愉楽』先行特別上映などが相次ぐ。

単なる「追悼」ではなく、
常にサインに「心」と書き添えていた若松孝二の
「心」を受け止め、つないでいく。

このイベント第一弾が『若松孝二オールナイト』inテアトル新宿

11月23日(金)開場22:15 開演22:30(5:00終了予定)

今年のカンヌ国際映画祭正式招待作品ともなった
『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』と、
三島氏の自決を受けて急遽台本を書き直して撮影された
『死にたい女』(1970)の新旧2本を上映し、若松孝二の映画人生に迫る。

トークは二部構成で
part1「映画監督・若松孝二を語る」では足立正生、平沢剛(聞き手)ほか。
part2「現在進行形の若松孝二」では、キャストの井浦新、満島真之介、
大西信満、地曵豪、渋川清彦、岡部尚、キャメラマン辻智彦ら
近作の若松組を支えた面々が登壇する。

『実録・連合赤軍』『キャタピラー』『11.25自決の日』
『海燕ホテル・ブルー』のメイキングに加え、
未公開の『千年の愉楽』メイキング上映も。

若松孝二が「差別をしない街」と愛した新宿の地で
濃く深く、「若松孝二」と語り合うオールナイトである。

2012年10月27日土曜日

追悼を越えて

昨日、東京国際映画祭にて
「追悼・若松孝二」として
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が上映された。
急遽決まって、2日前から告知をした特別上映。
終了時間が夜中24時という遅い時間にも関わらず
場内にはたくさんのお客様が集まってくださった。
そして、若松組からのたっての希望で、
井浦新、大西信満、地曵豪、そしてスタッフを代表して
キャメラマンの辻智彦が、上映前に舞台挨拶に立った。

「この連合赤軍は、監督との出会いとなった作品。
 監督は、怒りをモチベーションに、この作品を作り上げた。
 監督が、いかにこの作品に情熱を注いでいたか、その情熱は
 そのまま映像に焼き付いています。若松孝二を感じてください」
と井浦新が挨拶した通り、「実録・連合赤軍」は
およそ3ヶ月近くという若松組異例の長さをかけて撮影された。
監督が私財を投げ打って、プロデューサーとしての計算を越えて
若松孝二の人生の「落とし前」として取り組んだ作品だった。
猪突猛進に進んでいく監督の背中は、
時に猛吹雪の向こうにかき消されそうになったが
それでも、キャストもスタッフも、よろよろよろめきながら
必死にくらいついて、作り上げた作品だった。
若松孝二の声なき叫びが響き続けた現場だった。
(実際に毎日、リアルな怒号も響いていたわけだが)
今回の上映前の挨拶には、5分しか時間がとれないという
映画祭側からの説明もあったけれど
井浦らは登壇して挨拶することにこだわった。
それは、どんな小さな劇場であっても
頼まれれば舞台挨拶に出向いて行き、
自分の言葉で作品を語ろうとする若松孝二の背中を見続けていたからだ。
「北は北海道から南は沖縄まで、全国を監督とともに回った。
 作品はお客さんに見てもらって完成する。
 自分の声できちんと作品の事を語る。その事を監督に叩き込まれた。
 だから、今回は急な事ではあったけれど、ここに立って皆さんに挨拶できたことを
 感謝しています」と大西信満が語り、
地曵豪も「遅い時間にも関わらず、こんなにたくさんのお客様が見に来てくださって
本当に、心からお礼を申し上げます」と頭を下げた。
最後に、キャメラの辻智彦が
「キャストもスタッフも、表も裏も垣根を越えて作り上げたのがレンセキ。
 スタッフを代表して挨拶をします。
 若松孝二の肉体はなくなりましたが、若松孝二の魂、精神は
 映画の中に生きています。魂と、作品を通してふれあってください」と
短い言葉の中に、追悼を越えた万感の思いを込めて挨拶をした。
上映後には、場内から自然と拍手がわき起こった。
若松孝二の「落とし前」を、多くのお客様が目撃し、共有した瞬間だった。
一週間前の下高井戸シネマでの舞台挨拶の時には
若松孝二の姿をどこかに探し求めるような
ただただ深い「哀しみ」の中にあったが
昨日の舞台挨拶では、若松孝二の存在が放ち続けたエネルギーが
それぞれの中で、それぞれに形を変えて、芽吹いていた。
生きて、死ぬ。
人と関わり、別れる。
作品が生まれ、作品と出会う。
哀しさも嬉しさもいっしょくたになったようだった。
若松孝二のまなざしをどこかに感じた。

2012年10月24日水曜日

追悼・若松孝二 「実録・連合赤軍」上映

本日、晴れ男の監督らしいピーカンの青空の下、
参列者の拍手に見送られて監督は旅立った。
生前、「旅芸人の記録」(アンゲロプロス監督)で
権力に殺された青年を、家族が静かな拍手で見送った
あのシーンについて、繰り返し語っていた監督。
その監督の棺を見送る参列者から、拍手や声援が自然にわき起こった。

監督は、いつも、現場の先頭に立って、
少々理不尽でも言葉足らずでも、がむしゃらに進んでいた。
連合赤軍のロケは若松組としては異例の3ヶ月という長期間に及び
「若松塾」ともいうべきキャストの連帯も生まれた。

いくつもの修羅場を生還してきた監督だから
今回も、医学の数値を踏み越えて、起き上がってくると信じていた。
今も、何かがかみ合わない。
よく飲み込めないカタマリが喉につかえている。
それでも、状況は動いて行く。

今回、第25回東京国際映画祭で、若松孝二の追悼として、
2007年同映画祭「日本映画・ある視点」部門に出品された
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』を
上映することになった。
上映前に、わずかな時間ではあるが、監督と作品の思いを
観客の皆さまと共有すべく、井浦新、大西信満、地曵豪の3名が
舞台挨拶に立つ。

2012年10月22日月曜日

若松孝二がそこにいた夜

昨日、下高井戸シネマにて、予定通り
「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」上映後に
トークイベントが行われた。
補助椅子も座布団も総動員、立ち見で作品を観てくださった方たちも
多くいらした中で、上映後に、井浦新、満島真之介、大西信満が
トークに立った。

若松孝二が、他の監督と違う点は何か。
劇映画でありながら、実際に起きていることのようなリアリティを感じるのはなぜか。
連合赤軍の後に、なぜ三島由紀夫を題材にしたのか。
若松孝二から言われた言葉で、強く思いに残っているものは何か。

時間ぎりぎりまで、お客様からの挙手は続いた。

「ものづくり、映画作りに対する、自由さと純粋さ。
 若松監督ほど自由で純粋な監督は他にいないと感じる」
「役者を言葉で徹底的に追いつめていきながら
 内面の何物かをえぐり出していく、その演出は若松監督ならでは」
「大人に対して、あそこまで真正面から
 言葉をぶつけてくる人は、他にいない」
「再現ドラマを撮るのではないから。その瞬間、芝居をしたら怒られますから」
「監督が描きたかったのは、「三島由紀夫」そのものではなく、
 彼を通して、命がけで何かをしようとする若い人間の生き様だった」

ここに、実体として立っていない、若松孝二の
その思いを、作品を、情熱を、なんとか伝えようと
3人が懸命に言葉を紡いだ。
舞台挨拶では、作品を一人でも多くのお客さんに見てもらうために
時につたない言葉になりながらも、懸命にしゃべり続けた若松監督が
今も、3人の横に仁王立ちしているのではないか、とさえ思えた。

そこには、何もかも、言葉と思いがかみ合わないような
ここ数日の出来事を、ともに受け止めて、前に向かおうとする
同志がいた。

下高井戸シネマでの上映は、今週金曜まで。

若松孝二監督逝去の経緯について

若松孝二が急逝した経緯について、
様々な情報が流れておりますので、
若松監督の家族より、下記の通り説明をさせて頂きます。
若松孝二は、10月12日夜、新宿区内でタクシーにはねられ重傷を負いました。
救急車が到着した時には意識があり、自分で名前を言えるほどでしたが、
病院に到着した時にはすでに意識がありませんでした。
17日朝、脈が弱まり、終日、声をかけ続けましたが、
脈も弱まり、血圧も下降し、あらゆる反応が徐々に下降しました。
大きくみんなの声に反応する様子を見せたその直後、23時5分に息を引き取りました
家族が病院に駆け付けてからは、一度も会話はできず、
眼も開くこともありませんでした。
死因は、多発外傷との診断でした。
以上、簡単ながら、経緯をご説明させて頂きました。

2012年10月19日金曜日

21日(日)下高井戸シネマ

若松プロダクションに若松孝二の怒号が響かない。
それでも、空間のそこかしこに
監督の声が響いているように感じる。
「めそめそするな、バカタレ!」
「このタコ!しっかりしろ!」

そして、明日から、下高井戸シネマにて
「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の上映が始まる。
21日(日)のトークイベントには
井浦新と満島真之介が予定通り登壇する。
監督の実体はないけれど、
この間、若松孝二と各地の劇場を周り
監督と共に登壇し続けてきた井浦新の中に、
初の若松組で監督の洗礼を浴びた満島真之介の中に、
若松孝二は息づいている。

そして、何よりも、作品の中に、若松孝二がいる。
「映画に時効はないんだよ。俺が死んでも作品は50年100年って残るんだから」
監督の言葉が、あのときには感じなかった重さで響いてくる。

2012年10月9日火曜日

若松監督、無事帰国

アジアの映画人賞を受賞した若松孝二が
無事、帰国した。
帰国の翌日は、柏市の商工会議所での講演を行い
本日は、いつもと変わらず、若松プロダクションの椅子に座っていた。
「マスタークラスでの講演会は、通訳の女性が涙ぐんでいたとの報告もありましたが
 監督はどんな話しをしたのですか」と聞くと
「連日、トークや取材の嵐だったから、もうよく覚えてないよ…」
 と言いつつ、
「若い頃に家出して、警察にぶち込まれた怒りが原動力だとか、
 今の原発の問題は、補助金漬けという根深い問題だ、ということを
 話したかな」
 と、振り返っていた。
 いずれにせよ、何十年と変わることなく、等身大の言葉で
 言葉と表現を続けて来た、若松孝二らしい講演だったのだろう。
 次の週末、監督は、井浦新とともに、函館映画祭へ向かう。

2012年10月6日土曜日

若松孝二のてのひら

昨日は、「海燕ホテル・ブルー」に引き続き
「11.25自決の日」「千年の愉楽」の上映とティーチイン。
それぞれ、詳しい情報は入ってきていないが、
恐らく、刺激的な会話が交わされた事と思う。
そして本日は、現地メディアの取材をこなした後
夕方から、若松孝二の「ハンドプリント」(=手形を押す)イベントが行われた。
釜山の地に、若松孝二の手形が残された。
監督の手は、労働者の手だ。
17歳で宮城を飛び出し、ニコヨン、和菓子やの丁稚小僧、あらゆる仕事をして来た。
そして、映像の世界に飛び込んでからも、バカマツと言われながら
下積みを経て、映画監督に。
監督になってからも、自ら交通整理をしたり
小道具の料理を作ったりと、手と身体を動かさずにはいられなかった。
以前、東京映画祭で「実録・連合赤軍」がある視点部門に招待され
レッドカーペットを歩くように言われた時
「映画作りなんて、偉そうに赤いカーペットを歩く商売じゃないんだ。
 俺は所詮、映画作りしかできないから、映画を創ってるだけだ」と言って
正装してカーペットを歩くことを断固として拒否した。
あれから数年の間に、ベルリンで銀熊をとり、
カンヌとベネチアに招待され、今回も釜山で名誉ある賞を受賞した。
歩けと言われれば、正装してカーペットの上も歩く。
取材も、求められれば応じる。
話せと言われれば、登壇する。
監督の周辺は一気に華やいだ。
しかし、監督の手は、やはり労働者の手だ。
ものづくりへの気持ちも、何も変わっていない。


井浦新から送られた、この写真を見ながら、
改めて思った。
そして、今夜、マスタークラス講演会に登壇している。

ものづくりへの思いを、どのような言葉で語るのか。
そもそも、語る言葉を十分持ち合わせないから
若松孝二は映像で表現するのであるが、
それでもなお、どんな言葉が飛び出したのか
帰国後の報告が楽しみである。

2012年10月5日金曜日

「海燕ホテル・ブルー」上映後、熱く語る!

再び、釜山より速報レポートあり。
先ほど、「海燕ホテル・ブルー」の上映が終了し
監督とキャストが登壇した。
と、井浦新より、最新の情報が入った。
井浦、自ら登壇しつつ、監督を激写。

観客からは、プールでの色の変化、カメラ目線で原発を語る意図などの質問のほか、
現金輸送車の強奪回想シーンの少女の傘と
梨花の番傘とのつながりについて、といった新しい視点での問いかけも。
監督、1つ1つの質問に、楽しそうに丁寧に答えているという。
3つめの質問は、なかなかに鋭い!
当初、現金輸送車にぶつかってしまった少女の魂として
梨花を描こうか、という案も出ていたのである。
しかし、それをそのままリアルに描くと、妙にオカルトっぽくなるので
監督が、最終的にその案を退けた、という経緯がある。
が、監督の頭にわずかに残っていたその余韻が
映像を飛び越えて観客に伝わった、という事に、やはり映像表現の醍醐味を感じる。
井浦に対しても、様々な監督と仕事をすると刺激になり想像力が豊かになるか?
との観客からの質問が出て、井浦自身も「熱く語ってしまいました」という。
もうすぐ、「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の上映が始まる。
韓国のお客さんたちから、どのような反応が飛び出すか
それに、監督や井浦らがどう応えるか、楽しみだ。

釜山からのフォト便り

先ほど、監督の現地メディアのロングインタビューが始まった。
監督の体調はすこぶる良好。
との連絡が、同行する井浦新より入った。



いずれもphoto by Arata Iura
昨晩の開幕式写真は大西信満撮影。
同行するキャストも一丸となって
釜山初参加の若松監督をサポートしてくれる。
若松塾の熱い仲間たちである。
この仲間たちあってこその若松組である。
と、改めて思う。

釜山映画祭にて、アジア映画人賞受賞!

昨夜、釜山のシネマセンターは、熱気と大歓声に包まれた。
第17回釜山国際映画祭が開幕したのだ。
そして、その初日の大舞台で、「今年のアジア映画人賞」という
栄誉ある賞を受賞したのが若松孝二。
夕方の飛行機で釜山入りした監督は
そのまま慌ただしく開会式の会場へ移動。
大観衆の前で、トロフィーを手にした。



本日の地元新聞は、若松孝二の受賞を大きく取り上げている。

本日は、午後から夜にかけて
「11.25自決の日」「海燕ホテル・ブルー」「千年の愉楽」と
3本の特別上映と舞台挨拶が行われる。
現地入りした、井浦新、片山瞳、大西信満らも監督とともに登壇する。

2012年9月26日水曜日

ベネチアの風

少しタイミングを逸してしまったが
ベネチア国際映画祭での写真が届いたので、
向こうでの風が感じられるような写真を数点アップ。





しみじみ、若松監督は、人間に恵まれている、と思う。
時に毒舌で、強引さも際だつ一方で、屈託ない素直な性格が、
こうして多くの人を惹き付ける。
ベネチアに同行してくださった皆さま、ありがとうございました。
いよいよ、来年春の公開に向けて
様々なイベントの企画の準備が本格的にスタートする。

2012年9月11日火曜日

さよならベネチア

受賞こそ何もなかったが
ベネチア国際映画祭で、高良、高岡らと一緒に
ワールドプレミアの瞬間を過ごし、
上映後には暖かな拍手に迎えられた若松監督。
カンヌの時より健康状態もよく
ベネチアでの日々を、ゆったりと満喫した。
作品を「作りたい」と思い、作り、仕上げ、
そして観客の前に差し出すこと。
ひたすらに、その事を繰り返してきた。
そして、これからも、という思いを胸に(多分)
映画祭最後の夜、ベネチアでの夕暮れを見つめる若松監督。


そして昨日、無事ベネチアより帰国した若松監督。
気合い十分で、次なる作品に向けた構想を練り始めている。
そしていよいよ、年明け早々から、「千年の愉楽」公開に向けた
各地でのイベントがスタートする。

ベルリン、カンヌに引き続き、通訳とコーディネートをしてくださった
高橋晶子さんのご協力のもと、ささやかではありますが、
ベネチアレポートをお届けすることができました。
現地でお世話になりました皆さま、ありがとうございました。

2012年9月7日金曜日

ベネチアでの日々

ベネチア国際映画祭が開かれているリド島からは
空港へ行くのもどこへ行くのも全て船で移動。
早朝の便で日本へ帰国するキャストを空港まで送ると
ちょうど空港から帰る頃には、船上から美しい朝日が見えのだという。


 (毎日、若松組一行を、全面的にフォローして下さる
現地通訳兼コーディネータの高橋晶子氏撮影)
さて、この「千年の愉楽」、以前のブログでもご紹介した通り
黒田征太郎氏が、ライブで200枚のポスターをペインティングしてくださった。
今回の映画祭に、そのポスターを2枚持参した若松監督。
会場内に貼って、記念撮影。
中上健次と黒田征太郎と若松孝二がベネチアにて邂逅。

2012年9月5日水曜日

若松孝二、ベネチアのレッドカーペットを踏む


権威主義になるわけではないが、
「バカ松」「バカ松」と、インテリ映画人からアホにされ
「今にみていろ」とコツコツ制作アシスタントから助監督
そして監督となって独立プロを立ち上げ、
異色の映画監督として孤軍奮闘してきた若松孝二が
密かに抱いていた夢だった。
「国辱映画」と罵られても
「どぶ川に咲く一輪の花だってあるんだ」と
自分の表現したいものにこだわり続けた。
大きな資本の後ろ盾もない。
配給宣伝会社の力も借りない。
全て、自主製作自主配給でやってきて
ここまでたどり着いたのだ。
現地時間の9月4日午前11時。
最新作「千年の愉楽」の公式上映が始まった。
上映に先立ち、レッドカーペットを歩く
若松孝二とキャストの高岡蒼佑、高良健吾、原田麻由ら。



 

 


 


会場内でも、上映前にそれぞれの名前が紹介され
立ち上がって挨拶をする。

上映終了後、場内は暖かな拍手で包まれたという。
特に、監督にサインを求める人たちの勢いは
ベルリンやカンヌ以上だったと、全での映画祭でコーディネーターを務めた
高橋晶子氏は言う。

圧倒的な存在感を持つ中本の男たちを演じた
高岡蒼佑、高良健吾も、マスコミの取材を受け、
自分たちの作品への思いを語った。

リド島の夕暮れの空をバックに
現地メディアの取材を受け続ける若松監督。

公式上映の慌ただしい一日は、こうして終了しました。
応援してくださった皆さま、感謝申し上げます。

2012年8月24日金曜日

「千年の愉楽」湯布院映画祭にて上映!

昨日夜、湯布院映画祭にて「千年の愉楽」が
上映された。
日本国内での初の公式上映とあって、
立ち見のでる満員の場内。

 

 

上映後は、若松監督、佐野史郎、高岡蒼佑、高良健吾らが
登壇し、活発な議論が交わされた。

「キャタピラー」以来の湯布院映画祭、
監督は、亀の井別荘の女将らと旧交を温め、
映画を愛する人たちによる映画を愛する人たちのための映画祭を
心ゆくまで堪能した。

いよいよ、ベネチア国際映画祭での公式上映を十日後に控え、
国内での嬉しい出陣式となった。

2012年7月26日木曜日

「千年の愉楽」第69回ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門正式招待 若松孝二監督正式コメント

「千年の愉楽」がベネチア国際映画祭のオリゾンティ部門に正式招待されました。
若松孝二監督にコメントをいただきました。

「僕が、初めて海外の映画祭に呼ばれて行ったのは
 1965年のベルリン国際映画祭『壁の中の秘事』でした。
 あのときは、生まれて初めてタキシードを借りて緊張して
 世界の舞台へと乗り込んでいった。
 そうしたら、日本のマスコミやインテリからは
 「国辱映画だ」と散々叩かれました。
 国辱で結構、泥の中に咲く一輪の花だってあるんだ。
 私は私の映画にその確信を持って、50年以上映画を撮り続けてきました。
 4年前にベルリンで「実録・連合赤軍」が、
 そして2年前に再びベルリンで「キャタピラー」が
 そして今年はカンヌで「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」が
 正式上映してもらえた。
 その同じ年に、「千年の愉楽」にベネチアからの招待状が届いた。
 わずか4年間で世界三大映画祭に呼んでもらえたことは
 僕の中で、小さな誇りになっています。
 映画祭に呼んで欲しさに映画を創っているわけじゃありません。
 国内や海外に、たくさんのお客さんたちがいて、
 僕の作品を楽しみにしてくれている。
 その人たちのためにも、面白い作品を作り続けていきたい。
 そして、僕のような、独立プロで自分で作品を作り続けてきた人間にとって
 海外の映画祭で正式上映してもらうことが、
 より多くの人に僕の作品を観てもらえる、最大のチャンスなんです。
 作品は、観てくれる人がいて、初めて完成する。
 観てくれる人がいて、初めて成立するんです。
 昨年、溢れる気持ちのままに作り上げた「千年の愉楽」が
 今、僕の手から離れて、ベネチアという素晴らしい舞台で
 よちよち歩きを始めようとしている。
 その事を、本当に嬉しく、ありがたい事だと思ってます」

 若松孝二

2012年7月9日月曜日

あっという間の1時間。テアトル新宿ファイナルイベント

7月8日。
テアトル新宿のファイナルイベント。
今回はスペシャルゲストに本作に企画参加した鈴木邦男も来るとあって
登壇する井浦新ら本人たちも気合いが漲る。
拍手で迎えられた若松監督、鈴木邦男、井浦新、満島真之介。
まずは、鈴木が、本編と当時についてを比較しつつ
映画とあの時代と三島や森田について論じた。


 

監督は、新撰組の土方歳三と三島由紀夫のイメージをダブらせて語り、
井浦と満島は、切腹の瞬間の思いを追体験したリアルさを語った。

鈴木邦男が「楯の会の若者たちは、あの若さで
あそこまで素晴らしい人間に出会ってしまった事が、
その後の人生において逆に不幸だったのでは」と語ると、
一方で満島が、「自分自身は、森田さんのお兄さんに出会い
若松監督に出会い、三島演じる新さんと出会えた、この濃密な時間は
それまでの22年をも凌ぐものを自分の人生にもたらした」と言葉をつないだ。
場内からは、「絶望からの出発だ、といって、最後に自決していく絶望的な終わり方。
どのように感じて演じていたのか。1年経った今の気持は。
さらに、この絶望感は、後の我々に何を残しているのか」といった問いが飛び出し、
怒涛のロケの瞬間の自分の感情を手探りしながら、
井浦と満島が、答えた。
映像を通して再び三島と森田が邂逅した、と鈴木邦男がトークを締めくくると
トークの終わりには、完成したての次回作「千年の愉楽」の
特別予告というサプライズが。
寺島しのぶ、高良健吾、高岡蒼佑、染谷将太、佐野史郎、井浦新らが織りなす
若松ワールドの新たな映像の断片が流れ、場内が静かにざわついた。

6月2日に初日を迎えた「11.25自決の日」も
いよいよ、テアトル新宿での最終日は今週金曜日。
まだ、各地で上映は続いているが、一つの大きな山場を通り過ぎた。
数々の「出来事」をくぐり抜けて、作品が一人歩きした一ヶ月。
たくさんの方が、劇場に足を運んでくださったこと、
そして、二度、三度と作品を観て下さった方が少なくなかったこと、心から感謝したい。
昨日の客席には、佐野史郎、片山瞳ら、若松組の俳優陣の姿もあった。
佐野も片山も、次回作「千年の愉楽」に出演している。
予告編を、思いがけず彼らと共にスクリーンで観ることができた瞬間、
次の作品に向けてのトビラが開かれたのだ、と実感する。

2012年7月2日月曜日

公開初日から5週目、再びテアトル新宿へ

7月1日(日)小雨が降る中
テアトル新宿は立ち見の方も出る大入り満員で
三島5週目を迎えた。
若松監督と井浦新、そして満島真之介が上映後に壇上に上がり
6月2日から始まった長い三島の公開の日々を振り返りつつ
お客様との濃密な20分を共有した。

会場からは、「劇中に「生きることはどう死ぬかだ」というニュアンスの
台詞があったが、ご自身は、死に方を意識していますか」という問いが。
井浦は「それぞれに方法論だと思うが、自分自身は常に今をいかにドライブして
生きていくかに重きを置いて考えている。その上で、明日、死ぬかもしれないし
いつ何があるかわからないが、その時に、いい人生だったと思えればよい」と語り
若松監督は「あのね、50も過ぎれば、死ぬなんていちいち、どうでも良くなる。
いつ何があるかもわからない。みんな、自分のやりたいことをやればいいんです」
と話した。
さらに「崇徳院を演じることと三島を演じたことに因縁を感じるか」
「三島由紀夫や森田必勝という人物を演じながら、何を感じたのか」
といった質問が相次いだ。
日米同盟、日本の自衛隊をアメリカがいかに重視しているかといった話題になるや
監督はスイッチがオン。
「あのね、絶対に、戦争なんかダメなんですよ。
 どれだけ女性や子どもも犠牲になるか。
 戦争は絶対にだめだ。
 原発だって、大飯の再稼働なんて、ふざけた事になって。
 でもね、再稼働なんて状況は、自分たちの責任だ。
 そういう政治家を許してきたんだよ。
 絶対に、原発を稼働させた政治家たちを次の選挙で落とす、
 それしかない」と熱弁をふるった。 
ちょうど、昨日のイベントの日には
大飯原発再稼働のために、再稼働に反対する人たちの抗議行動を
機動隊が強制撤去。
夜21時には、大飯原発の原子炉がついに起動した。
数十年前から原発に反対してきた若松監督は
黙ってはいられなかったのだ。
井浦と監督の熱弁に押され気味だった満島も
「森田という人を演じること、新さん演じる三島さんの背中を追いかけること
 その事に精一杯だったが、この情熱は、今の時代にも通じるはず。
 僕と同じ世代の人に、一人でも多く、作品を観て欲しい。
 親戚の方、友だち、お子さんなどに、お小遣いを1000円渡して
 携帯をいじる2時間を、劇場に行っておいで、と言ってください」と頭を下げた。
トークでは、多くの観客の方が挙手をしてくださり、
時間の都合上、十分に対応できず、心残りとなった。
そのため、再び、時間をたっぷり確保してのトークイベントを
現在、調整中だ。
実現可能かどうか、まだ確定ではないが、
三島公開のスタート地点であるテアトル新宿にて
再び濃密な時間を演出したいと、監督は意気込んでいる。

2012年6月26日火曜日

ニュースの視点「なぜ、今、三島由紀夫か」

昨日、TBSの24時間ニュースチャンネル「TBSニュースバード」の
「ニュースの視点」という生放送番組に
若松孝二監督と鈴木邦男氏がゲスト出演。
43分間にわたり、たっぷりと
「今、なぜ三島由紀夫をテーマに描いたのか。
 三島という人間。彼の生き様から現代の私たちは何を受け取るのか」
といったテーマについて、様々な角度から論じ合った。

途中、1969年当時の東大全共闘と三島氏との討論会のニュース映像や
1966年にTBSが収録していた三島氏の一問一答の映像が流れ、
「愛国という言葉は強制的なにおいがあり嫌いだ、
 自分は憂国なのだ」という言葉や
「文士の自殺は消極的な自殺だ、一方で僕は攻撃としての自殺は認める。
 武士の自殺がそれである。僕が死ぬならば、武士となってから死ぬよ」
といった言葉など、三島氏が、自身の落とし前の付け方を
様ざまなニュアンスを込めて語っているVTRを、
若松監督も鈴木氏も、食い入るように見つめていた。
「三島氏の生き様、死に様から、何を受け継ぐか」との問いに
若松監督は「いつの時代も同じように、おかしいと思ったら
自分の気持ちに正直に生きるということでしょうね」と語った。
「三島さんはなぜ、死なねばならなかったのか」という問いには
「それは、本当に僕にも分からないんですよ」と若松監督が語ると
鈴木邦男氏も「だから、みんな、42年経っても、こうやって考えている」
と語り、「時代が追いつめたということも、
若者たちが追いつめたということもあろう」と続けた。

2012年6月20日水曜日

中上さんを指先に感じて…黒田さん200枚ライブペイント完成!

東北で監督が劇場を回った3日間。
その同じ3日間、都内では、監督の盟友・黒田征太郎さんが
『千年の愉楽』のポスターを手描きで200枚
ライブペインティングしていた。



 

本日の黒田さん。
BGMは松田優作さんのベストアルバム。
「優作は中上さんと会いたがっていたんだ。
 でも、会えないまま、二人とも逝っちゃったから。
 だから、今日は二人を連れて来たんだ」と黒田さん。
白いポスターを目の前にして、
考え込む時間はわずか数秒。
汲めども尽きぬ泉のように、
次から次へと、黒田さんは、千年の愉楽の世界を
B全の紙の上に描き出していく。
先日、見学に来ていた学生たちに、黒田さんはこう話していた。
「僕はね、描く前に考えないんです。
 じっくり構成を…ということを、一切しない。
 もともと、こういうタチなんですね。
 それに、描く前に考え込むって、自分というよりも
 他人の評価を気にして、ほめられたいから、
 考えてしまうんだと思うんですよ」
今日も、描きながら、こう語っていた。
「僕は、ヒトにあれこれ言われるのが好きじゃない。
 僕がいいと思ったらいいんだ」
黒田さんの指先から、中上さんの気配がほとばしる。
中上さんへの愛情を込めて、
中上さんの『千年の愉楽』の行間に立ち上る情景に愛情込めて
黒田さんが、そこに魂を込めていくのを感じる。
その表現の瞬間には、他者の評価など、入り込む隙はない。
心が震えるような、ライブペインティングだった。
200枚、描き終えた時、黒田さんが、ラストの一枚に
中上さんへのコトバを書き添え、ペンシルを置いた。
「おわり!」
汗の光った黒田さんの顔に、笑みが浮かんだ。
最高の瞬間に、立ち会えたと思った。

八戸も無事終了!

悪天候の中、フォーラム八戸も無事終了!との
連絡が入る。

またまた、井浦のfacebookからの流用となってしまうが
「ラストシーンの、ひろげた両手の下にあるテーブルに付いたシミが、
飛び散った血のようでした」
とのコメントが客席から飛び出したという。
まさに、映画とは、作り手と観る側とのジャズセッション。
その色彩は、変幻自在に、変わりゆく。
後は、今夜のフォーラム那須塩原を残すのみ!

フォーラム盛岡にて、トーク白熱1時間半!

近畿から東海、関東と嵐が吹き荒れた昨夜。
台風は現在東北東側を北上中。
みちのく二人旅の監督と井浦の道中が気になるが
まずは、届いたばかりの18日フォーラム山形のフォトを。
満員の劇場。
お客様からの問いかけ。
書籍をお求め下さるお一人お一人と交わす言葉。



そして、昨日のフォーラム仙台とフォーラム盛岡も
どちらの劇場も満員。
フォーラム盛岡は最終回での上映後ということで
トークが白熱し、なんと1時間半にも及んだ。
「作品について、どのように生きるかについてなど語らい、
時間が経つのを忘れ楽しんだ」(井浦新facebookより)という。
監督も「観にきてくれるお客さんが良いから、
この映画の舞台挨拶はものっすごく楽しいなぁ」と
満面の笑みを浮かべていたとか。
いずれにせよ、ハードなスケジュールでも
劇場での手応えさえ感じられれば、
エネルギーはどんどんチャージされていく。
みちのく二人旅は、たくさんのお客様に支えられ
本日いよいよ最終日である。

2012年6月19日火曜日

東北二人旅・番外編 さくらんぼのほっぺ

東北を移動中の井浦新から届いたフォト便り。
題して「東北二人旅・番外編」



あの怒涛の移動スケジュールの中に
どうやってこんな潤いのひとときを!?
粋なおもてなしをしてくださった
フォーラムの皆さまに感謝。
さくらんぼとチビちゃんのほっぺたに癒しと元気をもらって
次なる会場での皆さまとの出会いを求めて、
さあ、東北の旅、まだまだ続きます!