2007年12月22日土曜日

シネマスコーレ初日、各回ほぼ満員でした!

 

 
 

 


 
 





本日22日(土)、名古屋のシネマスコーレにて、ついに公開初日を迎えました。
 シネマスコーレでは、初回を朝の8時10分から、しかも、初回のみ700円とい
う特別感謝価格にて上映するという試みをしています。休日のこんな朝早くか
ら、果たしてお客様は足を運んでくださるのか・・・・一抹の不安の入り交じっ
た思いは、8時前から並んで待ってくださっていたお客様の姿によって吹き飛ば
されました。
 初回から18時40分のラストの回まで、毎回、会場はほぼ満席となりました。
 冷たい雨の中、傘をさして劇場前に集まってくださったお客様の姿に、胸が
いっぱいになりました。本当に、すばらしい初日を迎えることができました。あ
りがとうございます。

 各回上映後に、若松監督、ARATAさん、並木愛枝さん、地曵豪さん、大西信満
さんの挨拶と、会場でのティーチインが行われ、地曵さんが思わず「お客様の姿
が迫ってくる感じがして、怖いほどだった」と洩らすほど、次々とストレートな
言葉が飛び出しました。思わず質問しながら、感極まって泣き出した方、「万感
胸に迫る思いだ」と語って下さった方、「あまりに衝撃的な遠山さんの粛清シー
ン、撮影現場はどうだったのか」「一体、森恒夫は何を間違えて、あのような粛
清へと至ったと思うか」「実際に連合赤軍の兵士だった方たちは、この作品をど
う見ておられるのか」・・・・。


  
























遠山さん粛清の場面について、永田洋子さんを演じた並木さんは「状況が少し
でも違っていれば、本当は遠山さんと自分は親友になれたのかもしれない、とい
う気持ちになり、辛くて仕方がなかった。実際の永田さんも、もしかしたらそん
な思いを抱いていたのではないか」と語りました。森氏の過ちは何だったと思う
かと問われた地曵さんは「簡単に、ここで一言では言えない。人間の感情は日
々、揺れ動いていく。ただ、自分自身は、あの状況にどんどん追いつめられ、ど
うやってこの集団を維持してくかということに必死になっていた」と話しました。
 監督は「連合赤軍の若者を、権力の側から一方的に描いた映画や、ただ暴力と
セックスばかりを強調して描いた映画しかない状況では、監督として死んでも死
にきれなかった。60年代の出来事を含め、嫌なものは嫌だ、と声をあげ、立ち上
がった若者たちの生き方を、きちんと残しておきたかった。最後の少年の叫び
は、今、この映画を観ている一人一人に向けてのメッセージでもある。今の自分
たちは、嫌なものに対しては嫌だ、という生き方をしているかどうか」と語りま
した。

  二回目の上映後、一人の女性が監督にそっと歩み寄り、小さなお年玉封筒を差
し出しました。驚いた監督は「頂くわけにはいかない」と断りましたが、女性は
「ぜひ、みんなで美味しいものでも食べてください」と言い、名前も言わず足早
に立ち去っていかれました。監督が封筒を開けると、中には、新札の1万円札が
5枚。監督は言葉を失いました。さらに、この女性が、坂東さんの役を演じた大
西さんに「私はあの時代、血を流し損ねた人間。その落とし前をつけるために、
今朝は自分の手を切って、血を流してから見に来ました」と、手の傷を見せてい
たことがわかりました。
「長い監督人生の中、こんなことは初めての経験。あの映画を作ってくれてあり
がとう、という気持ちを伝えようとしてくれたのだろうか。こんな人と出会えた
だけでも、あの映画を作ってよかった」と監督は言いました。
「もう一度、見に来ます」「自分にも、今、すべきことがあるんじゃないかと思
えた」「3時間10分があっという間だった」
 上映後、皆さまからかけて頂いた言葉です。
 先日の「別冊カドカワ」のインタビューで監督が話していた言葉を思い出しま
した。
「映画っていうのは、スクリーンの上でのお客さんとのケンカだからね」
 今日、「実録・連合赤軍」と対話してくださった全てのお客様に、心からの感
謝を申し上げます。
 そして、これから劇場に足を運んでくださる皆さま、心から、お待ち申し上げ
ております。

2007年12月18日火曜日

公開記念オールナイトイベント第二弾、ヒートアップ!

 
先週の土曜日、オールナイトイベント第二弾、テアトル新宿は、またまた熱気
に包まれました。
 残念ながら、ビザが間に合わずに演奏できなかったジムさんがニューヨークか
ら送ってくれた声のメッセージでスタートしたオールナイト。平岡正明さんの、
味わいとネタが満載のトークを挟んで登場した渚ようこさんの歌声と高橋ピエー
ルさんのギターで、場内は1960年代、70年代の空気に満たされました。
「ママ ぼくでかける ぼくのお巡り殺しに ぼくのみんなを殺しに」(ゆけゆ
け二度目の処女)
 演奏できなかったジムさんの分まで、渚さんは、何曲も歌い続けました。そし
て、ラストは、「実録・連合赤軍」の劇中歌としても使われている「ここは静か
な最前線」(天使の恍惚)
 連合赤軍事件が明るみに出て、人々が衝撃を受けている頃に上映、劇中と同じ
ように現実でも交番が爆破される事件が起きて、大騒ぎになった作品の主題歌です。
 















 


  ライブの後、「実録・連合赤軍」メイキングVol.2の上映を挟んで行われた
トークが、かなりの荒れ模様となりました。元赤軍派議長の塩見孝也さん、元連
合赤軍兵士の植垣康博さん、元ブントの平野悠さんらを迎えてのトークですか
ら、荒れないはずがなかったとも言えます。
 元議長として、赤軍派の路線と、その後の連合赤軍事件の総括について語る塩
見さん、現場のコマンドとしての極限を語る植垣さん。その植垣さんに「へらへ
らするなよ!もう少しうなだれろよ!」、連合赤軍事件が、当時の新左翼活動家
にどれほどのショックとダメージを与えたかを考えてくれ、と思わず叫んだ平野
さん。
 連合赤軍事件によって、それぞれがこの何十年もの間、背負い続けているもの。
 決して総括しきれないもの。
 会場からの問いかけなどもあり、予定時間を上回ってトークは続きました。
 このトークの模様は、来年2月発売予定の書籍「実録・連合赤軍」(朝日新聞
社刊)に一部収録する予定です。
 その後、ヒートアップした会場で、監督のレトロスペクティブ上映と続きました。
 逃亡中の活動家集団をかくまう孤高のテロリストを描いた「セックスジャッ
ク」(1970)と、バブルに沸く日本で、かつて新宿騒乱で警官に頭を割られ、今
はひっそりと喫茶店を営む男性を描いた「われに撃つ用意あり」(1990)。
「われに撃つ用意あり」のラストは、エンドロールのバックに、ずっと1968年の
新宿騒乱のモノクロ映像が流れていきます。そして、その映像は、いつしかネオ
ン眩しい東京の夜景の中に埋もれていきます。何が変わったのか。何が見えなく
なったのか。何も変わっていない。そこにある。
 そんな監督のまなざしを感じました。
 冷え込みの厳しい早朝5時半に、イベントは終了しました。みなさんからのア
ンケートには「久しぶりに若松作品にひたれた」「トークバトル、おもしろかっ
た」「皆さん、とても情熱的で心にひめた思いのある人」といった言葉がありま
した。足を運んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
 朝焼けを横目に、自転車を走らせながら、トークの時の数々の言葉と、「われ
に撃つ用意あり」の原田芳雄さん扮する主人公の静かな闘志を、思い出しまし
た。熱いイベントの一夜となりました。
 
 さて、今月8日から14日まで、全国どこよりも先駆けての公開となった宮城県
大崎市のシネマリオーネ古川では、連日、さまざまな世代のお客さまが劇場に足
をお運びくださいました。9日の函館映画祭のクロージング上映にも、若松監督
と坂東國男役の大西信満さんが招かれ、上映後の討論会では、濃い討論が交わさ
れました。
 
 そしていよいよ、今週末より、名古屋のシネマスコーレにて封切りです。
 22日(土)の初日は、若松監督、ARATAさん(坂口弘役)、地曵豪さん(森恒
夫役)、並木愛枝さん(永田洋子役)、大西信満さん(坂東國男役)の舞台挨拶
もあります。
 ぜひ、劇場に足をお運びください。

2007年11月29日木曜日

ベルリン国際映画祭へ!

本日、ベルリン国際映画祭から、正式な招待状が届きました。
先般の東京国際映画祭に出していましたので、コンペ部門ではなく
ヨーロッパプレミアとしてフォーラム部門へのご招待です。
「東京で観たとき、私たちは深い感銘を受けました」とのメッセージ入りで。
1965年「壁の中の秘事」で招待され「国辱」と呼ばれた若松監督が
数十年の歳月を経て、再び、ベルリン国際映画祭へ!
現在、六本木シネマートにてATG特集が行われており、
先週金曜日の23日、井筒監督の「ガキ帝国」上映後、
若松監督とプロデューサーの佐々木史郎さんのトークがありました。
ここで佐々木史郎さんは、連合赤軍について
「若ちゃん、僕は、何年ぶりかで、映画をみて、泣いたよ。
最後の15分、本当に泣いていたよ」と話していました。
佐々木さんが流した涙、ベルリン映画祭選考委員の胸を打ったもの。
映画が、いろいろな人と出会いながら、
どんどん成長を続けているように感じました。
さて、来週末から、いよいよロケ地でもある宮城県の古川にて
全国どこよりも早く、1週間だけの公開です。
ロケでお世話になった皆さま、本当にありがとうございました。
大崎市役所鳴子総合支所の皆さま、鳴子ダムの皆さま、鬼首ロッジの皆さま、
鳴子消防団の皆さま、地元のたくさんの皆さま、
ぜひ、古川のシネマ・リオーネにて、完成した作品を観て頂ければ嬉しいです。
初日の8日には、若松監督と坂東役の大西信満さんの舞台挨拶もあります!

2007年11月20日火曜日

第一回オールナイトイベント終了!
















公開決定記念イベント「若松孝二・レトロスペクティブオールナイト」第一弾が、
11月17日(土)24時、テアトル新宿で始まりました。
冷え込み厳しい夜でしたが、テアトル新宿は、夜更けに駆けつけてくださった、
たくさんのお客さんの静かな熱気に包まれました。
イベントは、音楽を手がけたジム・オルークさんのアコースティックギターと
勝井祐二さんのバイオリンのセッションでスタート。
思いが寄り添って音となるような、そんな繊細なメロディがジムさんのギターか
ら流れ出し、
勝井さんのバイオリンが、優しく手探りしながらジムの音にさらに寄り添う。
会場の空気が、染められていくようでした。
本編でジムさんが奏でているアグレッシブなロックとはまた全然違った風合いの、
ジムさんと勝井さんの紡ぎ出す音に、酔いしれたのでした。



ジムさんのライブで静かな興奮に包まれた会場を次に満たしたのが、
竹藤佳世さんの「実録・連合赤軍」のメイキング「GUN AWAY! vol.1」の映像。
当日の夕方にできたばかりの新作です。
メイキングは東京国際映画祭での「作品賞」受賞シーンから始まり、
突如画面は、1年前のオーディション会場へ。
1ヶ月後に過酷な撮影現場にたたき込まれることになる役者さんたちとの、
最初の出会いが映し出されました。
クランクイン後に待っていたのは、恐ろしく張り詰めた現場の空気。
奥多摩でのロケを終え、軍事訓練を行う新倉ベースのロケ地へと乗り込んでいき
ます。
ぜひ、来月の第二弾をお楽しみに!
メイキング上映に続いて、中原昌也さん、森達也さん、ジム・オルークさん、
若松孝二監督によるトークが始まりました。
司会なし、という無謀にも思える試みでしたが、4人の個性が不協和音を奏でる
ジャムセッション、なんともスリリングなトークとなりました。
大変近い場所であの時代を生きた監督ならではの特権的な感じはなかったか。
90%の真実にこだわりすぎて監督の連合赤軍に対するスタンスが
はっきり見えなくなった可能性もあるのではないか。
オウムの若者も連合赤軍の兵士たちも、賢くてピュアで心優しい青年たち、この
類似性は何か。
宗教に答えを求める動きはあの当時はなかったのか。
いろいろな問いかけが4人の間を飛び交いました。
それぞれの問いかけに、お互いが十分に答えられず、もしかしたら、
お客さんの中に、フラストレーションを感じられた方もいらっしゃるかもしれま
せん。
しかし、お互いがスッキリと分かり合えたり、スムーズに意志を疎通できて
キャッチボールが進んでるように見えても、それは実はゴマカシかもしれない。
そう器用にはいかなくても、お互いが、もどかしく言葉をぶつけ合う。
伝わらない壁を感じる。
そして、答えは見つからない。
そこには予定調和はありません。
そんな、トークになりました。

イベント後半は「新宿マッド」と「水のないプール」の上映。
70年と82年、それぞれの時代の匂いが立ちこめる作品です。
そしてイベントは朝5時に終了しました。
劇場から地上に出ると、明け方の冷え切った空気が頬を刺しました。
足をお運びくださった皆さま、ありがとうございました。
来月の第二回は12月15日、ゲストに元赤軍派議長の塩見孝也さんや
元連合赤軍兵士の植垣康博さん、ロフトプラスワンの平野悠さんをお招きします。
司会は平岡正明さん。
ますます濃く、激しい不協和音になるかもしれません。
ライブはジム・オルークさんに加え、渚ようこさんも歌声を聞かせてくれます。
乞う、ご期待!

2007年11月7日水曜日

模索舎にて、「実録・連合赤軍」と「ELNEST」のコラボTシャツ販売開始

いよいよ、来週末からテアトル新宿にて
公開前のオールナイトイベントがスタートします。
チケットは、劇場ではなく、チケットぴあにて10日から販売します。
公開が、一歩一歩、確実に近づいてきます。
さて、本日から、知る人ぞ知る新宿のショップ「模索舎」で
「実録・連合赤軍」Tシャツの販売がスタートしました。
http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/
このTシャツは、出演者でもあるARATAさんのデザイン。
ARATAさんの新ブランド「ELNEST」と「実録・連合赤軍」の
コラボTシャツです。
胸には若松プロのロゴマーク。
背中には、赤いチラシでおなじみの、銃を持った5人の手。
写真の5人が着ているのが、それです。
湯布院映画祭で特別先行販売したところ、あっというまに完売しました。
テアトル新宿でも、近日、販売をスタートする予定です。
サイズはS、M、Lの3種類。税込み4200円です。

2007年10月29日月曜日

速報 !! 東京国際映画祭 受賞 !!

「実録・連合赤軍」は、第20回東京国際映画祭の<日本映画・ある視点>で作品賞を受賞しました。

 




賞のプレゼンテーターのマリオン・クロムファスさんから、「この映画は世界にとっても、非常に重要な映画だ」とのコメント。
また審査委員長の関口裕子さんは、講評で「もし、特別賞の対象が作品でなかったらならば、『実録・連合赤軍』の出演者全員に特別賞を授与したかった」と述べました。
受賞という事実だけではなく、マリオンさんや関口さんのこの映画への率直な感想がそのまま伝わってくる言葉です。
そして、ぼくたちは確信しています。
この映画は、まさにその言葉通りの映画なのだ、と……。

2007年10月22日月曜日

東京国際映画祭で上映

「実録・連合赤軍 ─あさま山荘への道程」は、10月20日、東京国際映画祭の<日本映画・ある視点>のオープニング作品として、TOHOシネマズ 六本木ヒルズ5で上映されました。

上映に先立ち、監督、出演者の舞台挨拶があり、大勢の出演者が駆けつけてくださいました。
また、描かれた事件の当事者の方も何人か映画を見に来てくださいました。












3時間を超す長編にもかかわらず席を立つ人はなく、上映後のアンケートによれば、「友人に勧めたい」と回答してくださった方が圧倒的に多かったです。










引き続き、若松監督と主な出演者によるティーチインも行われました。













(下左)永田洋子役の並木愛枝さん、(下右)森恒夫役の地曳豪さん。



また、午後5時から行われたオープニング・セレモニーで、出演者は7,000人の観客に見守られフラッシュの嵐を浴びながら、恒例の<赤い絨毯>の上を歩きました。

出演者の誰もが、一年前には、自分がその場にいるとは想像できなかったでしょう。

この映画は、日本の映画史に残ることはいうまでもなく、出演者・スタッフなど関係者の心の中にも深く刻まれました。
 
 

2007年9月4日火曜日

湯布院映画祭にて。。。

8月26日(日)、「実録・連合赤軍」が、湯布院映画祭で上映されました。
今年で32回目という歴史ある湯布院映画祭は、
各地から本当に映画を愛する人たちが集まってくる、
熱い映画祭として有名なのだそうです。
盆地の中にこじんまりと広がった湯布院では、
町を挙げてこの映画祭の開催をバックアップしている様子が
あちこちで出迎えてくださる方の笑顔から伝わってきました。
午後12時20分、上映会場が暗くなり、
東京や群馬など、各地から駆けつけてくださったお客様の前で
「実録・連合赤軍」が始まりました。
熱気に包まれた会場は、立ち見が出るほどの盛況ぶりでした。
上映後、興奮さめやらぬお客様と、出演者・監督との
シンポジウムが始まりました。
「とんでもない映画が、できてしまいましたね。。。。」と
言葉にならない思いを語ってくださった人。
「少年の最後のセリフは、森と永田に責任を転嫁してしまうのでは」
「いや、あのセリフこそ、この映画のクライマックスだ」
などの、熱い議論。さらに、
「この作品は、あの時代を生きた人にこそ観て欲しい。
 なぜ、今のような状況になってしまったのか。
 民主党で政権交代だなどと喜んでいる、
 当時の全共闘にこそ、観てもらいたい」
といったメッセージも。
そして、24歳の青年からの
「僕は、彼らがなぜ、このようなことをしてしまったのか、このようなことをして
 何をしたかったのかが、やはりわからない」
という素直な投げかけに対し、出演者ひとりひとりが、
自分の言葉で、青年へ、ボールを投げ返しました。
60年代70年代の熱、表現のエネルギーを語ったARATAさん(坂口役)。
妬みや苛立ち、個人の感情は普遍的で時代を超えている、と語った並木さん(永
田役)。
突然、飛行場建設で立ち退きを命じられた人の気持ちを想像してみて、
そして、今の時代も、例えば、イジメなど様々な場所で、人が人の存在を
否定し、殺している状況があることを想像してみて、と語った地曵さん(森役)。
熱いシンポジウムとなりました。
「あまりの衝撃で、言葉がまとまりません」
と話してくれた若い女性もいました。
「あの後、自分の生き方を考えてしまいました。
 そして、家に帰ってから、ネットで調べてしまいました。
 勉強してから、公開されたらもう一度、見に行きます」
というメールをくださった人もいました。
あの時代と、そして今。
何が伝わって、何に衝撃を受けたのか。
あるいは、何が伝わらなくなっているのか。
人が生きることや、平和や平等さを求める気持ち、
一方で、弱さやずるさも抱えていることなどは
時代は変わっても、変わりはしないこと。
あの頃はベトナム、そして今はイラク戦争へ加担していること。
大学での学生の自由な表現への締め付けはますます厳しくなっていること。
変わったようで、変わらない今。
人が生きるエネルギーの強さ。そして危うさも。
観た人ひとりひとりが、あの作品と、それぞれの出会いをした。
そんな、確かな手応えを感じた上映でした。
来年春のテアトル新宿と梅田での上映が決まり、
11月からは新宿でオールナイトイベントが始まります。
ブログでも随時イベントの告知をしていきますので、
どうぞ楽しみにお待ち下さい

2007年6月30日土曜日

お披露目

6月27日

ついに、完成試写会が新宿の明治安田生命ホールで開かれました。

500人収容の会場は満員。制作員会の船戸与一、鈴木邦男、三上治をはじめ、元赤軍派議長塩見考也氏、元革命左派で現在「連合赤軍事件の全体像を残す会」の活動をしている雪野健作氏、日本の新左翼を研究するハワイ大学のパトリシア・スタインホフ教授、スタッフ、出演者などさまざまな人たちが集まりました。
観終わった人たちは、口々に「あっという間の3時間だった」「もっと観たかった」「すごい映画だ」と興奮した様子。平岡正明氏は、「間違いなく、若松孝二の最高傑作だ」と評しました。スタッフや出演者の想いは、確実に伝わり、この作品を見ていただいた人たちの胸に残ったようです。ありがとうございました。

しかし、映画は完成して終了するわけではありません。その映画を観る人たちがいて、初めて成立します。今後は来年2月の封切りに向けて、より一層努力します。
今後ともよろしくお願いいたします。

2007年5月20日日曜日

とうとう、完成です!

若松監督、渾身の最新作「実録・連合赤軍」、
5月18日に、最後のロールのダビングが無事終了しました。
たくさんの人たちの励ましとご協力によって、ここまでたどり着きました。
みなさま、ありがとうございました。
作品は、劇場でひとりひとりと出会った瞬間に、完成します。
完成披露試写会を、下記の通り行います。
先着200名様限定です。
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」
製作:若松プロダクション・スコーレ株式会社(上映時間:3時間10分)
日時:2007年6月27日(水) 午後5時30分開場 午後5時45分開始
場所:新宿明治安田生命ホール
(新宿区西新宿1-9-1 明治安田生命新宿ビルB1F 新宿西口徒歩2分)
http://meijiyasuda-life-hall.com
入場料:2000円
本サイトのトップの「完成披露試写会のご案内!」から
お申し込みください。
200名の先着に間に合った方には
試写会お申し込みの受付完了のお知らせを返信致します。
当日、受付にてお名前をおっしゃって、入場料をお支払いください。
当日は、上映前に、監督による舞台挨拶も予定しております。
皆さまと、劇場でお会いできることを、楽しみにしております!
(写真キャプション)
5月10日、音楽のレコーディングが行われました。
今回、音楽を手がけたのは、ジム・オルークさんです。

2007年2月5日月曜日

ラストカットは浅間にて

 

先週の半ば、実景の撮影に、群馬と長野に行って来ました。
氷の張った榛名湖の向こうにそびえる榛名山。
とがった輪郭を浮かび上がらせる妙義山。
そして、あさま山荘にたどりついた坂口らが最後に目にしたであろう
日本の風景、浅間山。
周囲の山々と異なり、そこだけ真っ白な雪に覆われた浅間山は、
夕焼けと、そして翌朝の朝焼けの中、静かにかすかな噴煙を上げ続けていました。
「よく、ここまで来たな」
妙義山から碓氷峠を越え、浅間山荘へと続く坂道を登りながら
監督がつぶやきました。
極寒の冬山を、軽装備で、食べ物もろくに食べず、
警察に追われるという極限状況の中、彼らをここまで突き動かしたものは何だったのか。
柔らかな陽ざしに包まれ、神々しいほどに美しく輝く浅間山を遠くに眺めながら、
あさま山荘での銃撃戦の果てに、この山を目にした彼らの胸中に思いを馳せました。
追い詰められていった彼らが見たであろう山々を、
それから35年後に、たどっていき、ついにこの映画の撮影は終了しました。
静かなラストカットとなりました。(A)

(写真は、榛名山と妙義山)
 

2007年1月26日金曜日

突入!!……、そして、撮影終了

1月26日
 



















激しい放水と催涙弾の白煙のなか、抵抗をけして止めない坂口、板東、吉野、加藤兄弟を機動隊員が押しつぶした。それが、「あさま山荘」に籠城した連合赤軍の5人が逮捕された一瞬だった。そして、あしかけ3ヶ月に及んだこの作品の撮影が終わった瞬間でもあった。昨年11月に、革命左派(京浜安保共闘)が実際に初めて山岳ベースを設けた奥多摩や、軍事訓練中の赤軍派が大量逮捕された山梨の大菩薩峠で始まった撮影は、事実がそうであったように真冬の山中で、放水を浴びながら幕を閉じた。
 今日、若松監督が10年ほど前に建てた山荘は、重機で破壊された。実際に、警察が「あさま山荘」を制圧するとき、モンケンと呼ばれる鉄球で壁に穴を開けた場面を撮影するためだ。しかし、モンケンは、最近使われなくなったため、代わりの重機が使われた。この山荘を破壊する計画を聞かされた誰もが、最初に「もったいない!」と耳を疑った。だが、いまこうして目の前で破壊されてゆく光景を見ているると、若松監督の、そうまでしてこの作品を撮りたかった<想い>が伝わってくる。その<想い>があったからこそ、この作品の撮影は、三ヶ月かけてここまで漕ぎ着けた。


 

撮影されたのは事実の忠実な再現ではないが、「あさま山荘」を語るときに外せない事実として、山荘の破壊は行われた。さらに、警察が大量の放水を浴びせかけ、催涙弾を撃ち込んだように、撮影でも昨日に引き続き地元の消防団の協力により、大量の放水が行われた。少ない予算、限られた撮影日数のなかで、若松監督は最大限の撮影を行ってきた。それは、「映画は金ではない」という言葉を、ある意味で実践してゆく作業でもあった。金がなければ映画が撮れないのは事実だが、その事実を超える作品もある。
 いちど放水が始まると、山荘の内部はその水飛沫で何も見えなくなる。昨日に引き続き、出演者・スタッフがずぶ濡れの撮影になった。吹き飛ばされそうな水圧のなかで5人は抵抗を続け、ついに逮捕される。それは、撮影後、ある出演者の足首が曲がり麓の病院に運ばれるほど、迫力に満ちたシーンだった。さいわい、彼は脚の筋を傷めただけで、入院が必要なほど重傷ではなかったが……。
そして、「あさま山荘」の銃撃戦が終わったとき、日本の戦後というひとつの時代が終焉を告げ、豊かさの幻想に満ちた現在の日本が始まった。「彼らが間違っていたとか、正しかったとかは、この作品を観た人が考えればよいことだ」、と若松監督は言う。この作品は、<いまの日本>の成り立ちを問い続ける。

 
2007年1月26日、午後3時。映画「実録・連合赤軍」の撮影、終了。
下の記念写真に写っている人たちだけではなく、その何倍もの人たちの労力と熱意、制作費を寄せてくださった多くの方々によって、この作品は無事撮影を終えることができた。
ここに写っていない人たちに、改めて感謝の気持ちを伝えます。
ありがとうございました。
 








                  























お知らせ:
この作品は撮影を終え、今後ポストプロダクションに入ります。その経過を、毎日更新ではありませんが、随時アップします。映画の構想段階から、撮影、作品の完成までをインターネット上でリアルタイムに公開する試みは、おそらく日本で初めてです。今後もご愛読をお願いします。(B)





2007年1月25日木曜日

放水

1月25日
 「あさま山荘」攻防戦撮影第二日目は、大崎市消防団鳴子支団第六分団有志の協力により、雪が舞うなか、警察側の放水による攻撃、という設定で始まった。放水の威力は凄まじい。放水が始まると、瞬く間に視界が消える。そして、撃ち込まれる催涙弾や発煙筒。出演者だけではなく、監督、カメラ、照明、音響などのスタッフも全員がビショ濡れになり、咳き込んでの撮影だった。
氷点下10℃にもなる真冬の軽井沢で、この放水や催涙弾の攻撃にに連日耐えた連合赤軍メンバーの精神力に、今更ながら驚かされる。                                                                      
                                                                                                                                                                      




                                        
                                      
実際に「あさま山荘」制圧に使われた催涙ガス弾は、3,126発。発煙筒326発、ゴム弾96発、現示球(照明弾の一種)83発、放水量15.85トン……。動員された警察官は、警視庁からの応援548名を含め1,635名。うち、山荘の攻撃部隊は382名、特殊装甲車9台、モンケンと呼ばれるビル解体用の鉄球を吊り下げた10トンクレーン車1台、高圧放水車4台だった。
たった5人の連合赤軍メンバーを相手に、これだけの物量を動員して警察側は何をしたかったのか? ……革命を主張し、銃を手にした彼らに、平和と民主主義を標榜する権力の人道主義なるものを宣伝したかったからだ。権力の善意?、不変?、強大さ……などを、視聴率89.7パーセントを記録したテレビを通して、アッピールしたかったからだ。
 今日のもうひとつの重要な撮影シーンは、彼ら5人と管理人の妻・牟田泰子とのやりとりだった。このやりとりのなかにこそ、「あさま山荘」での事実と意味が描かれている。「あさま山荘」を内部から描いた映画は、これまでなかった。若松監督は、それを描きたかったからこそ、この映画を撮ろうと決意した。
明日は、いよいよ山荘を破壊した(もうすでにグチャグチャだが)警察の機動隊員が、彼らを制圧するシーンの撮影だ。そして、そのシーンで、この作品の撮影は終了する。


2007年1月24日水曜日

攻防戦、始まる

1月24日
 今日から、いよいよ「あさま山荘」の攻防戦の撮影が始まった。山荘には、催涙弾が撃ち込まれ、なかは白い闇に覆われる。いちどでも催涙弾の洗礼を受けた者なら、その苦しさがわかるはずだ。実物の催涙弾が使われたわけではなかったが、出演者たちは発煙筒やスモーク筒に演技ではなく咳き込んだ。「あさま山荘」攻防戦の後半は、連日、警察の催涙弾の射撃が続いた。





 警察が強行突入を図ったのは、連合赤軍の5人が「あさま山荘」に侵入してから10日後だった。なぜ、そんなに時間がかかったのか? 当時の後藤田警察庁長官が、「全員生きたまま逮捕しろ」という指令を出したからだ。警察の上部は、連合赤軍の「あさま山荘」籠城が始まった頃には、妙義山で逮捕した奥沢修一などを通して、同志粛清の事実をほぼつかんでいた。だが、警察側はその発表を抑えた。それは、反権力の銃撃戦を集団殺人の印象にすり替えるためだった。
 また、連合赤軍は「見せしめ」にもされた。籠城したメンバーの母親や父親を呼び寄せ、その口から投降を呼びかけたのだ。なかには、すでに処刑されていた寺岡恒一の親まで含まれていた。もちろん、彼らはそれに応じないばかりか、銃の発砲で返答を浴びせたのだが……。

連合赤軍による「あさま山荘」銃撃戦は、日本の太平洋戦争後の時代、いわゆる[戦後]の転換を告げる出来事だった。警察側の戦術には、日本が引きずる家父長制度も利用された。それが、親による投降勧告だった。家族の崩壊は、いまでも衝撃的な事件を多くひき起こしている。

彼らはその後の日本が進む現在の姿を、予感していたのだろうか?彼らが目指したのは、彼らが掲げる共産主義ではなかったと思える。「あさま山荘」で響いのは、いまも続く「日本」に終焉を告げようとする銃声でもあった。
そして、いま、この作品も監督のイメージと出演者の演技との間で、最後の攻防戦を迎えている。

あさま山荘

警察の包囲網が縮まり、連合赤軍の残存部隊坂口ら5人は、ついに「あさま山荘」に乱入した。某楽器メーカーの保養所だったそこには、客が出払った留守を守る管理人の妻がいた。彼らはその妻を拘束して「あさま山荘」に立て籠もる。だが、彼女が《人質》ならば当然求めるであろう、解放の交換条件や要求を、彼らは一切出さない。警察側は彼女を人質と呼んだが、連合赤軍の5人には彼女が人質だという意識は薄かった。

(↑管理人の妻、牟田泰子[奥貫薫])
 日本で初めて、革命を目指す者たちが起こした銃撃戦、つまり「あさま山荘」事件をその内部から描く映画は、いままでなかった。いや、むしろその内部を描きたいからこそ、この作品は連合赤軍が生まれる過程を撮り、彼らが犯した過ちを描いてきたのだ。さらに、実際の関係者と関わりのあった若松監督でなければ知り得ない事実も、登場する。まさに、この「あさま山荘」の内部こそが、監督がこの映画に託すメッセージそのものだ。
                         

        もし、「あさま山荘」の銃撃戦とそこに至る歴史を克明に再現しようとしたら、制作費はとてつもなくかかるだろうし、撮影期間も計り知れないだろう。だが、この連合赤軍は、'60~'70年代を同時代として生きた映画監督ならば、撮らざる得ない、いや撮らなければならないテーマだった。若松監督はそれを現実的に実現しうる作品として撮影している。
映画の撮影現場は、非日常的な世界だ。だが、その非日常的な現場に何日も身を置いていると、それ自体が日常になってくる。

若松監督やこの日記作成者は、今日から「あさま山荘」として撮影が始まった山荘に、ずっと泊まり自炊をしていた。だが、今日、その日常的な場所が、突然、窓がバリケードで塞がれ、床に物が散乱する非日常的な空間に変わってしまった。
若松監督があえて自分の山荘を「あさま山荘」として使おうと決めたのは、あらゆる日常性を否定したかったからだろう。彼は、しばしば「慣れっコ」は嫌だと語る。映画を撮り続ける監督・若松孝二の原点は、そこにあるのかもしれない。