昨夜、時折冷たい小雨が降る中、
「追悼を越えて」第一弾「若松孝二in新宿」
オールナイトイベントが始まった。
早めに劇場入りすると、ロビー奥の黒いソファが目に入る。
いつも、ほぼ先乗りしている若松監督の定位置だ。
昨夜は、そこは空席。
22時30分「死にたい女」上映が始まった。
1970年11月25日。三島由紀夫と森田必勝の割腹自殺を
信濃町のホテルで知った若松監督と足立正生氏。
当時書いていた脚本をとりやめ、急遽書き上げられたのが
「死にたい女」である。
裸の女の上に順々に被さっては走り去っていく褌と鉢巻きの男たち5人。
いきなり流れるウェディングマーチ。
いきなり怒涛のごとく流れていくスタッフキャストのロール。
「死にたい」男と女、「死におくれた」男と女、
取り残された楯の会の若者かもしれないと匂わせる
若者のぐるぐる自家中毒。
若松孝二と足立正生がゲラゲラ笑いながら映像で遊び倒した
その様が見えてくるようで、それでも
「生きる」も「死ぬ」のも、見える風景はそんなもの、という
そんな乾いたジリジリ感が、荒削りの映像にしみ出していて
暗闇のスクリーンで、たっぷり監督と遊ばせてもらった78分。
その後は、若松監督の「盟友」という枕詞が定着してしまった
足立正生氏と、映画研究者の平沢剛氏のトークが始まった。
「バカや冗談を言い、罵りあいながら、
映画を通してどう生きるかを、さいごまで考えていた。
近年は俺が書いた脚本を、「くっちゃべる映画は面白くない」と採用せず
でも、培ってきたものを、そのまま映画にし続けて来た。
彼は常に、自分が苦労してきた生き様を、その「自負」を
自分の作品の確信にしていたのだろう」
これまで、若松監督と一緒に登壇する足立さんしか、見たことがなかった。
そういう時の足立さんはいつも、辛辣な言葉で
若松孝二を挑発したり、からかったりしていた。
それがこの夜は、マイクを握り、前を向いたまま、淡々と言葉を語る。
「通常の独立プロは、その監督の作品を作るためのプロダクション。
若松プロは、若ちゃんは、すぐに「お前、脚本かけ」「お前、監督やれ」と
関わってきた奴らにチャンスをつくり、配給に頭を下げてやってきた。
若松という人物を場にしながら、ワイワイやっていたんだ。
撮影現場では独裁的で、天気が悪いのも足立のせい、となるが
企画を考えるような時は、本当に誰ともヒラに付き合い
意見を聴き、決してお高くとまらない、特殊な人だった。
罵り会う相手がいなくなると、
大きな空洞、という以上のものがあるんだ」と話した。
前衛的な、攻撃的な、作品の匂いは、時代とともに変われど
「作る」=「生きる」であった若松孝二の芯は
50年間の監督人生において、何ら変わらなかった事を
足立さんの語る言葉の隅々から感じることができた。
「自分が死んでも映画は残る、と若ちゃんは言ってきた。
その都度、時代の中で評価も見方も変われど、
彼がずっと柱にしてきたのは、生きるための根性で
それは、意外かもしれないが、彼のまじめさにあったんだ」と
足立さんの言葉の一つ一つが、すべて、腑に落ちていくトークpart1となった。
続いて、「連合赤軍」から「千年の愉楽」までの
5作品のロケ現場の「若松孝二」凝縮の「メイキング」上映。
連合赤軍撮影時の若松監督が、やはり尋常ではない
燃え上がり方をしていたことが、改めてスクリーンに映し出された。
そして後半は、近年の若松組常連キャストスタッフトーク。
井浦新、大西信満、地曵豪、渋川清彦、岡部尚、満島真之介、辻智彦(キャメラ)
7人が、客席の最前列にずらりと並んで立ち、
自分たちの中の若松孝二、現場や日常遭遇した若松監督とのエピソードを
さまざま披露。
司会は急遽、大西信満が担当し、若松組らしい、
等身大でお客様の前に立つトークイベントとなった。
出てくるエピソードエピソードに、客席からは笑い声が。
まさしく「追悼を越えて」いく、イベントとなった。
確かに、若松孝二は、たくさんのものを産み落としていった。
スクリーンに映し出される若松監督の顔、手、頬、背中。
それらの肉体はなくなれど、確かにたくさんの手触りが残っている。
エンジンが、静かに温まった夜だった。
「追悼を越えて」第一弾「若松孝二in新宿」
オールナイトイベントが始まった。
早めに劇場入りすると、ロビー奥の黒いソファが目に入る。
いつも、ほぼ先乗りしている若松監督の定位置だ。
昨夜は、そこは空席。
22時30分「死にたい女」上映が始まった。
1970年11月25日。三島由紀夫と森田必勝の割腹自殺を
信濃町のホテルで知った若松監督と足立正生氏。
当時書いていた脚本をとりやめ、急遽書き上げられたのが
「死にたい女」である。
裸の女の上に順々に被さっては走り去っていく褌と鉢巻きの男たち5人。
いきなり流れるウェディングマーチ。
いきなり怒涛のごとく流れていくスタッフキャストのロール。
「死にたい」男と女、「死におくれた」男と女、
取り残された楯の会の若者かもしれないと匂わせる
若者のぐるぐる自家中毒。
若松孝二と足立正生がゲラゲラ笑いながら映像で遊び倒した
その様が見えてくるようで、それでも
「生きる」も「死ぬ」のも、見える風景はそんなもの、という
そんな乾いたジリジリ感が、荒削りの映像にしみ出していて
暗闇のスクリーンで、たっぷり監督と遊ばせてもらった78分。
その後は、若松監督の「盟友」という枕詞が定着してしまった
足立正生氏と、映画研究者の平沢剛氏のトークが始まった。
「バカや冗談を言い、罵りあいながら、
映画を通してどう生きるかを、さいごまで考えていた。
近年は俺が書いた脚本を、「くっちゃべる映画は面白くない」と採用せず
でも、培ってきたものを、そのまま映画にし続けて来た。
彼は常に、自分が苦労してきた生き様を、その「自負」を
自分の作品の確信にしていたのだろう」
これまで、若松監督と一緒に登壇する足立さんしか、見たことがなかった。
そういう時の足立さんはいつも、辛辣な言葉で
若松孝二を挑発したり、からかったりしていた。
それがこの夜は、マイクを握り、前を向いたまま、淡々と言葉を語る。
「通常の独立プロは、その監督の作品を作るためのプロダクション。
若松プロは、若ちゃんは、すぐに「お前、脚本かけ」「お前、監督やれ」と
関わってきた奴らにチャンスをつくり、配給に頭を下げてやってきた。
若松という人物を場にしながら、ワイワイやっていたんだ。
撮影現場では独裁的で、天気が悪いのも足立のせい、となるが
企画を考えるような時は、本当に誰ともヒラに付き合い
意見を聴き、決してお高くとまらない、特殊な人だった。
罵り会う相手がいなくなると、
大きな空洞、という以上のものがあるんだ」と話した。
前衛的な、攻撃的な、作品の匂いは、時代とともに変われど
「作る」=「生きる」であった若松孝二の芯は
50年間の監督人生において、何ら変わらなかった事を
足立さんの語る言葉の隅々から感じることができた。
「自分が死んでも映画は残る、と若ちゃんは言ってきた。
その都度、時代の中で評価も見方も変われど、
彼がずっと柱にしてきたのは、生きるための根性で
それは、意外かもしれないが、彼のまじめさにあったんだ」と
足立さんの言葉の一つ一つが、すべて、腑に落ちていくトークpart1となった。
続いて、「連合赤軍」から「千年の愉楽」までの
5作品のロケ現場の「若松孝二」凝縮の「メイキング」上映。
連合赤軍撮影時の若松監督が、やはり尋常ではない
燃え上がり方をしていたことが、改めてスクリーンに映し出された。
そして後半は、近年の若松組常連キャストスタッフトーク。
井浦新、大西信満、地曵豪、渋川清彦、岡部尚、満島真之介、辻智彦(キャメラ)
7人が、客席の最前列にずらりと並んで立ち、
自分たちの中の若松孝二、現場や日常遭遇した若松監督とのエピソードを
さまざま披露。
司会は急遽、大西信満が担当し、若松組らしい、
等身大でお客様の前に立つトークイベントとなった。
出てくるエピソードエピソードに、客席からは笑い声が。
まさしく「追悼を越えて」いく、イベントとなった。
確かに、若松孝二は、たくさんのものを産み落としていった。
スクリーンに映し出される若松監督の顔、手、頬、背中。
それらの肉体はなくなれど、確かにたくさんの手触りが残っている。
エンジンが、静かに温まった夜だった。