2007年9月4日火曜日

湯布院映画祭にて。。。

8月26日(日)、「実録・連合赤軍」が、湯布院映画祭で上映されました。
今年で32回目という歴史ある湯布院映画祭は、
各地から本当に映画を愛する人たちが集まってくる、
熱い映画祭として有名なのだそうです。
盆地の中にこじんまりと広がった湯布院では、
町を挙げてこの映画祭の開催をバックアップしている様子が
あちこちで出迎えてくださる方の笑顔から伝わってきました。
午後12時20分、上映会場が暗くなり、
東京や群馬など、各地から駆けつけてくださったお客様の前で
「実録・連合赤軍」が始まりました。
熱気に包まれた会場は、立ち見が出るほどの盛況ぶりでした。
上映後、興奮さめやらぬお客様と、出演者・監督との
シンポジウムが始まりました。
「とんでもない映画が、できてしまいましたね。。。。」と
言葉にならない思いを語ってくださった人。
「少年の最後のセリフは、森と永田に責任を転嫁してしまうのでは」
「いや、あのセリフこそ、この映画のクライマックスだ」
などの、熱い議論。さらに、
「この作品は、あの時代を生きた人にこそ観て欲しい。
 なぜ、今のような状況になってしまったのか。
 民主党で政権交代だなどと喜んでいる、
 当時の全共闘にこそ、観てもらいたい」
といったメッセージも。
そして、24歳の青年からの
「僕は、彼らがなぜ、このようなことをしてしまったのか、このようなことをして
 何をしたかったのかが、やはりわからない」
という素直な投げかけに対し、出演者ひとりひとりが、
自分の言葉で、青年へ、ボールを投げ返しました。
60年代70年代の熱、表現のエネルギーを語ったARATAさん(坂口役)。
妬みや苛立ち、個人の感情は普遍的で時代を超えている、と語った並木さん(永
田役)。
突然、飛行場建設で立ち退きを命じられた人の気持ちを想像してみて、
そして、今の時代も、例えば、イジメなど様々な場所で、人が人の存在を
否定し、殺している状況があることを想像してみて、と語った地曵さん(森役)。
熱いシンポジウムとなりました。
「あまりの衝撃で、言葉がまとまりません」
と話してくれた若い女性もいました。
「あの後、自分の生き方を考えてしまいました。
 そして、家に帰ってから、ネットで調べてしまいました。
 勉強してから、公開されたらもう一度、見に行きます」
というメールをくださった人もいました。
あの時代と、そして今。
何が伝わって、何に衝撃を受けたのか。
あるいは、何が伝わらなくなっているのか。
人が生きることや、平和や平等さを求める気持ち、
一方で、弱さやずるさも抱えていることなどは
時代は変わっても、変わりはしないこと。
あの頃はベトナム、そして今はイラク戦争へ加担していること。
大学での学生の自由な表現への締め付けはますます厳しくなっていること。
変わったようで、変わらない今。
人が生きるエネルギーの強さ。そして危うさも。
観た人ひとりひとりが、あの作品と、それぞれの出会いをした。
そんな、確かな手応えを感じた上映でした。
来年春のテアトル新宿と梅田での上映が決まり、
11月からは新宿でオールナイトイベントが始まります。
ブログでも随時イベントの告知をしていきますので、
どうぞ楽しみにお待ち下さい

2007年6月30日土曜日

お披露目

6月27日

ついに、完成試写会が新宿の明治安田生命ホールで開かれました。

500人収容の会場は満員。制作員会の船戸与一、鈴木邦男、三上治をはじめ、元赤軍派議長塩見考也氏、元革命左派で現在「連合赤軍事件の全体像を残す会」の活動をしている雪野健作氏、日本の新左翼を研究するハワイ大学のパトリシア・スタインホフ教授、スタッフ、出演者などさまざまな人たちが集まりました。
観終わった人たちは、口々に「あっという間の3時間だった」「もっと観たかった」「すごい映画だ」と興奮した様子。平岡正明氏は、「間違いなく、若松孝二の最高傑作だ」と評しました。スタッフや出演者の想いは、確実に伝わり、この作品を見ていただいた人たちの胸に残ったようです。ありがとうございました。

しかし、映画は完成して終了するわけではありません。その映画を観る人たちがいて、初めて成立します。今後は来年2月の封切りに向けて、より一層努力します。
今後ともよろしくお願いいたします。

2007年5月20日日曜日

とうとう、完成です!

若松監督、渾身の最新作「実録・連合赤軍」、
5月18日に、最後のロールのダビングが無事終了しました。
たくさんの人たちの励ましとご協力によって、ここまでたどり着きました。
みなさま、ありがとうございました。
作品は、劇場でひとりひとりと出会った瞬間に、完成します。
完成披露試写会を、下記の通り行います。
先着200名様限定です。
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」
製作:若松プロダクション・スコーレ株式会社(上映時間:3時間10分)
日時:2007年6月27日(水) 午後5時30分開場 午後5時45分開始
場所:新宿明治安田生命ホール
(新宿区西新宿1-9-1 明治安田生命新宿ビルB1F 新宿西口徒歩2分)
http://meijiyasuda-life-hall.com
入場料:2000円
本サイトのトップの「完成披露試写会のご案内!」から
お申し込みください。
200名の先着に間に合った方には
試写会お申し込みの受付完了のお知らせを返信致します。
当日、受付にてお名前をおっしゃって、入場料をお支払いください。
当日は、上映前に、監督による舞台挨拶も予定しております。
皆さまと、劇場でお会いできることを、楽しみにしております!
(写真キャプション)
5月10日、音楽のレコーディングが行われました。
今回、音楽を手がけたのは、ジム・オルークさんです。

2007年2月5日月曜日

ラストカットは浅間にて

 

先週の半ば、実景の撮影に、群馬と長野に行って来ました。
氷の張った榛名湖の向こうにそびえる榛名山。
とがった輪郭を浮かび上がらせる妙義山。
そして、あさま山荘にたどりついた坂口らが最後に目にしたであろう
日本の風景、浅間山。
周囲の山々と異なり、そこだけ真っ白な雪に覆われた浅間山は、
夕焼けと、そして翌朝の朝焼けの中、静かにかすかな噴煙を上げ続けていました。
「よく、ここまで来たな」
妙義山から碓氷峠を越え、浅間山荘へと続く坂道を登りながら
監督がつぶやきました。
極寒の冬山を、軽装備で、食べ物もろくに食べず、
警察に追われるという極限状況の中、彼らをここまで突き動かしたものは何だったのか。
柔らかな陽ざしに包まれ、神々しいほどに美しく輝く浅間山を遠くに眺めながら、
あさま山荘での銃撃戦の果てに、この山を目にした彼らの胸中に思いを馳せました。
追い詰められていった彼らが見たであろう山々を、
それから35年後に、たどっていき、ついにこの映画の撮影は終了しました。
静かなラストカットとなりました。(A)

(写真は、榛名山と妙義山)
 

2007年1月26日金曜日

突入!!……、そして、撮影終了

1月26日
 



















激しい放水と催涙弾の白煙のなか、抵抗をけして止めない坂口、板東、吉野、加藤兄弟を機動隊員が押しつぶした。それが、「あさま山荘」に籠城した連合赤軍の5人が逮捕された一瞬だった。そして、あしかけ3ヶ月に及んだこの作品の撮影が終わった瞬間でもあった。昨年11月に、革命左派(京浜安保共闘)が実際に初めて山岳ベースを設けた奥多摩や、軍事訓練中の赤軍派が大量逮捕された山梨の大菩薩峠で始まった撮影は、事実がそうであったように真冬の山中で、放水を浴びながら幕を閉じた。
 今日、若松監督が10年ほど前に建てた山荘は、重機で破壊された。実際に、警察が「あさま山荘」を制圧するとき、モンケンと呼ばれる鉄球で壁に穴を開けた場面を撮影するためだ。しかし、モンケンは、最近使われなくなったため、代わりの重機が使われた。この山荘を破壊する計画を聞かされた誰もが、最初に「もったいない!」と耳を疑った。だが、いまこうして目の前で破壊されてゆく光景を見ているると、若松監督の、そうまでしてこの作品を撮りたかった<想い>が伝わってくる。その<想い>があったからこそ、この作品の撮影は、三ヶ月かけてここまで漕ぎ着けた。


 

撮影されたのは事実の忠実な再現ではないが、「あさま山荘」を語るときに外せない事実として、山荘の破壊は行われた。さらに、警察が大量の放水を浴びせかけ、催涙弾を撃ち込んだように、撮影でも昨日に引き続き地元の消防団の協力により、大量の放水が行われた。少ない予算、限られた撮影日数のなかで、若松監督は最大限の撮影を行ってきた。それは、「映画は金ではない」という言葉を、ある意味で実践してゆく作業でもあった。金がなければ映画が撮れないのは事実だが、その事実を超える作品もある。
 いちど放水が始まると、山荘の内部はその水飛沫で何も見えなくなる。昨日に引き続き、出演者・スタッフがずぶ濡れの撮影になった。吹き飛ばされそうな水圧のなかで5人は抵抗を続け、ついに逮捕される。それは、撮影後、ある出演者の足首が曲がり麓の病院に運ばれるほど、迫力に満ちたシーンだった。さいわい、彼は脚の筋を傷めただけで、入院が必要なほど重傷ではなかったが……。
そして、「あさま山荘」の銃撃戦が終わったとき、日本の戦後というひとつの時代が終焉を告げ、豊かさの幻想に満ちた現在の日本が始まった。「彼らが間違っていたとか、正しかったとかは、この作品を観た人が考えればよいことだ」、と若松監督は言う。この作品は、<いまの日本>の成り立ちを問い続ける。

 
2007年1月26日、午後3時。映画「実録・連合赤軍」の撮影、終了。
下の記念写真に写っている人たちだけではなく、その何倍もの人たちの労力と熱意、制作費を寄せてくださった多くの方々によって、この作品は無事撮影を終えることができた。
ここに写っていない人たちに、改めて感謝の気持ちを伝えます。
ありがとうございました。
 








                  























お知らせ:
この作品は撮影を終え、今後ポストプロダクションに入ります。その経過を、毎日更新ではありませんが、随時アップします。映画の構想段階から、撮影、作品の完成までをインターネット上でリアルタイムに公開する試みは、おそらく日本で初めてです。今後もご愛読をお願いします。(B)





2007年1月25日木曜日

放水

1月25日
 「あさま山荘」攻防戦撮影第二日目は、大崎市消防団鳴子支団第六分団有志の協力により、雪が舞うなか、警察側の放水による攻撃、という設定で始まった。放水の威力は凄まじい。放水が始まると、瞬く間に視界が消える。そして、撃ち込まれる催涙弾や発煙筒。出演者だけではなく、監督、カメラ、照明、音響などのスタッフも全員がビショ濡れになり、咳き込んでの撮影だった。
氷点下10℃にもなる真冬の軽井沢で、この放水や催涙弾の攻撃にに連日耐えた連合赤軍メンバーの精神力に、今更ながら驚かされる。                                                                      
                                                                                                                                                                      




                                        
                                      
実際に「あさま山荘」制圧に使われた催涙ガス弾は、3,126発。発煙筒326発、ゴム弾96発、現示球(照明弾の一種)83発、放水量15.85トン……。動員された警察官は、警視庁からの応援548名を含め1,635名。うち、山荘の攻撃部隊は382名、特殊装甲車9台、モンケンと呼ばれるビル解体用の鉄球を吊り下げた10トンクレーン車1台、高圧放水車4台だった。
たった5人の連合赤軍メンバーを相手に、これだけの物量を動員して警察側は何をしたかったのか? ……革命を主張し、銃を手にした彼らに、平和と民主主義を標榜する権力の人道主義なるものを宣伝したかったからだ。権力の善意?、不変?、強大さ……などを、視聴率89.7パーセントを記録したテレビを通して、アッピールしたかったからだ。
 今日のもうひとつの重要な撮影シーンは、彼ら5人と管理人の妻・牟田泰子とのやりとりだった。このやりとりのなかにこそ、「あさま山荘」での事実と意味が描かれている。「あさま山荘」を内部から描いた映画は、これまでなかった。若松監督は、それを描きたかったからこそ、この映画を撮ろうと決意した。
明日は、いよいよ山荘を破壊した(もうすでにグチャグチャだが)警察の機動隊員が、彼らを制圧するシーンの撮影だ。そして、そのシーンで、この作品の撮影は終了する。


2007年1月24日水曜日

攻防戦、始まる

1月24日
 今日から、いよいよ「あさま山荘」の攻防戦の撮影が始まった。山荘には、催涙弾が撃ち込まれ、なかは白い闇に覆われる。いちどでも催涙弾の洗礼を受けた者なら、その苦しさがわかるはずだ。実物の催涙弾が使われたわけではなかったが、出演者たちは発煙筒やスモーク筒に演技ではなく咳き込んだ。「あさま山荘」攻防戦の後半は、連日、警察の催涙弾の射撃が続いた。





 警察が強行突入を図ったのは、連合赤軍の5人が「あさま山荘」に侵入してから10日後だった。なぜ、そんなに時間がかかったのか? 当時の後藤田警察庁長官が、「全員生きたまま逮捕しろ」という指令を出したからだ。警察の上部は、連合赤軍の「あさま山荘」籠城が始まった頃には、妙義山で逮捕した奥沢修一などを通して、同志粛清の事実をほぼつかんでいた。だが、警察側はその発表を抑えた。それは、反権力の銃撃戦を集団殺人の印象にすり替えるためだった。
 また、連合赤軍は「見せしめ」にもされた。籠城したメンバーの母親や父親を呼び寄せ、その口から投降を呼びかけたのだ。なかには、すでに処刑されていた寺岡恒一の親まで含まれていた。もちろん、彼らはそれに応じないばかりか、銃の発砲で返答を浴びせたのだが……。

連合赤軍による「あさま山荘」銃撃戦は、日本の太平洋戦争後の時代、いわゆる[戦後]の転換を告げる出来事だった。警察側の戦術には、日本が引きずる家父長制度も利用された。それが、親による投降勧告だった。家族の崩壊は、いまでも衝撃的な事件を多くひき起こしている。

彼らはその後の日本が進む現在の姿を、予感していたのだろうか?彼らが目指したのは、彼らが掲げる共産主義ではなかったと思える。「あさま山荘」で響いのは、いまも続く「日本」に終焉を告げようとする銃声でもあった。
そして、いま、この作品も監督のイメージと出演者の演技との間で、最後の攻防戦を迎えている。