1月5日夜、監督と打ち合わせ兼新年会。
「冷え込み厳しい年始でしたけれど、
体調は大丈夫でしたか?」と聞いたら
「大丈夫。ずーっと連赤のこと考えて
燃えてたから」と監督。
監督に火がつきました。
制作費募集のチラシやハガキ作成など
宣材ツールを充実させていきます。
チラシの配布など、ご協力頂ける方
ぜひご一報をお願い致します。
さて、この夜、お店で偶然の再会がありました。
HANA-BIなど数々の日本映画のタイトルデザインを
手がけている方とその奥様に遭遇。
監督とはそのお父様の代からのおつき合いだそうで、
一緒に飲みながら、監督が連赤の構想を話しました。
「あの時代を若松さんが撮るのは大賛成。
というよりも、若松さんしか撮れないでしょう」
ということで、題字でご協力頂けることになりました。
ありがとうございます。
この夜、このご夫婦と一緒に飲みながら、
こんな話しが出てきました。
1980年代、山谷の労働者を撮影していた若い映画監督が
右翼によって殺された事件。
その後、撮影を引き継ぐことになった人も射殺されました。
「表現者が殺されたこと」に怒った監督が
これは「政治」だからという理由で何も動かなかった監督協会にも腹を立て
デモの嫌いな監督が、デモに参加したこと。
山谷の活動家たちに話しに行ったこと。
「思想のために、表現者が殺されたんだから
黙ってていいのかって。
俺は思想もへっちゃくれもないけどね
どうしても腹が立ったんだよ」
1月4日の朝日新聞の夕刊で
ミュージシャンのジム・オルークさんは
若松映画についてこう語っています。
「強大な壁に対する激しい怒りと無力感を同時に、
しかも詩的に表現している」
「ピンク映画から出発した若松さんは、
閉ざされた枠組みの中であらゆる手法を使いながら、
表層の下に様々な意味を込める」
監督の感覚が炸裂したとき、
そして、それに自分の感覚が共振したとき。
これが、しびれるとき、というのでしょう。(A)
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