2012年10月27日土曜日

追悼を越えて

昨日、東京国際映画祭にて
「追悼・若松孝二」として
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が上映された。
急遽決まって、2日前から告知をした特別上映。
終了時間が夜中24時という遅い時間にも関わらず
場内にはたくさんのお客様が集まってくださった。
そして、若松組からのたっての希望で、
井浦新、大西信満、地曵豪、そしてスタッフを代表して
キャメラマンの辻智彦が、上映前に舞台挨拶に立った。

「この連合赤軍は、監督との出会いとなった作品。
 監督は、怒りをモチベーションに、この作品を作り上げた。
 監督が、いかにこの作品に情熱を注いでいたか、その情熱は
 そのまま映像に焼き付いています。若松孝二を感じてください」
と井浦新が挨拶した通り、「実録・連合赤軍」は
およそ3ヶ月近くという若松組異例の長さをかけて撮影された。
監督が私財を投げ打って、プロデューサーとしての計算を越えて
若松孝二の人生の「落とし前」として取り組んだ作品だった。
猪突猛進に進んでいく監督の背中は、
時に猛吹雪の向こうにかき消されそうになったが
それでも、キャストもスタッフも、よろよろよろめきながら
必死にくらいついて、作り上げた作品だった。
若松孝二の声なき叫びが響き続けた現場だった。
(実際に毎日、リアルな怒号も響いていたわけだが)
今回の上映前の挨拶には、5分しか時間がとれないという
映画祭側からの説明もあったけれど
井浦らは登壇して挨拶することにこだわった。
それは、どんな小さな劇場であっても
頼まれれば舞台挨拶に出向いて行き、
自分の言葉で作品を語ろうとする若松孝二の背中を見続けていたからだ。
「北は北海道から南は沖縄まで、全国を監督とともに回った。
 作品はお客さんに見てもらって完成する。
 自分の声できちんと作品の事を語る。その事を監督に叩き込まれた。
 だから、今回は急な事ではあったけれど、ここに立って皆さんに挨拶できたことを
 感謝しています」と大西信満が語り、
地曵豪も「遅い時間にも関わらず、こんなにたくさんのお客様が見に来てくださって
本当に、心からお礼を申し上げます」と頭を下げた。
最後に、キャメラの辻智彦が
「キャストもスタッフも、表も裏も垣根を越えて作り上げたのがレンセキ。
 スタッフを代表して挨拶をします。
 若松孝二の肉体はなくなりましたが、若松孝二の魂、精神は
 映画の中に生きています。魂と、作品を通してふれあってください」と
短い言葉の中に、追悼を越えた万感の思いを込めて挨拶をした。
上映後には、場内から自然と拍手がわき起こった。
若松孝二の「落とし前」を、多くのお客様が目撃し、共有した瞬間だった。
一週間前の下高井戸シネマでの舞台挨拶の時には
若松孝二の姿をどこかに探し求めるような
ただただ深い「哀しみ」の中にあったが
昨日の舞台挨拶では、若松孝二の存在が放ち続けたエネルギーが
それぞれの中で、それぞれに形を変えて、芽吹いていた。
生きて、死ぬ。
人と関わり、別れる。
作品が生まれ、作品と出会う。
哀しさも嬉しさもいっしょくたになったようだった。
若松孝二のまなざしをどこかに感じた。

2012年10月24日水曜日

追悼・若松孝二 「実録・連合赤軍」上映

本日、晴れ男の監督らしいピーカンの青空の下、
参列者の拍手に見送られて監督は旅立った。
生前、「旅芸人の記録」(アンゲロプロス監督)で
権力に殺された青年を、家族が静かな拍手で見送った
あのシーンについて、繰り返し語っていた監督。
その監督の棺を見送る参列者から、拍手や声援が自然にわき起こった。

監督は、いつも、現場の先頭に立って、
少々理不尽でも言葉足らずでも、がむしゃらに進んでいた。
連合赤軍のロケは若松組としては異例の3ヶ月という長期間に及び
「若松塾」ともいうべきキャストの連帯も生まれた。

いくつもの修羅場を生還してきた監督だから
今回も、医学の数値を踏み越えて、起き上がってくると信じていた。
今も、何かがかみ合わない。
よく飲み込めないカタマリが喉につかえている。
それでも、状況は動いて行く。

今回、第25回東京国際映画祭で、若松孝二の追悼として、
2007年同映画祭「日本映画・ある視点」部門に出品された
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』を
上映することになった。
上映前に、わずかな時間ではあるが、監督と作品の思いを
観客の皆さまと共有すべく、井浦新、大西信満、地曵豪の3名が
舞台挨拶に立つ。

2012年10月22日月曜日

若松孝二がそこにいた夜

昨日、下高井戸シネマにて、予定通り
「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」上映後に
トークイベントが行われた。
補助椅子も座布団も総動員、立ち見で作品を観てくださった方たちも
多くいらした中で、上映後に、井浦新、満島真之介、大西信満が
トークに立った。

若松孝二が、他の監督と違う点は何か。
劇映画でありながら、実際に起きていることのようなリアリティを感じるのはなぜか。
連合赤軍の後に、なぜ三島由紀夫を題材にしたのか。
若松孝二から言われた言葉で、強く思いに残っているものは何か。

時間ぎりぎりまで、お客様からの挙手は続いた。

「ものづくり、映画作りに対する、自由さと純粋さ。
 若松監督ほど自由で純粋な監督は他にいないと感じる」
「役者を言葉で徹底的に追いつめていきながら
 内面の何物かをえぐり出していく、その演出は若松監督ならでは」
「大人に対して、あそこまで真正面から
 言葉をぶつけてくる人は、他にいない」
「再現ドラマを撮るのではないから。その瞬間、芝居をしたら怒られますから」
「監督が描きたかったのは、「三島由紀夫」そのものではなく、
 彼を通して、命がけで何かをしようとする若い人間の生き様だった」

ここに、実体として立っていない、若松孝二の
その思いを、作品を、情熱を、なんとか伝えようと
3人が懸命に言葉を紡いだ。
舞台挨拶では、作品を一人でも多くのお客さんに見てもらうために
時につたない言葉になりながらも、懸命にしゃべり続けた若松監督が
今も、3人の横に仁王立ちしているのではないか、とさえ思えた。

そこには、何もかも、言葉と思いがかみ合わないような
ここ数日の出来事を、ともに受け止めて、前に向かおうとする
同志がいた。

下高井戸シネマでの上映は、今週金曜まで。

若松孝二監督逝去の経緯について

若松孝二が急逝した経緯について、
様々な情報が流れておりますので、
若松監督の家族より、下記の通り説明をさせて頂きます。
若松孝二は、10月12日夜、新宿区内でタクシーにはねられ重傷を負いました。
救急車が到着した時には意識があり、自分で名前を言えるほどでしたが、
病院に到着した時にはすでに意識がありませんでした。
17日朝、脈が弱まり、終日、声をかけ続けましたが、
脈も弱まり、血圧も下降し、あらゆる反応が徐々に下降しました。
大きくみんなの声に反応する様子を見せたその直後、23時5分に息を引き取りました
家族が病院に駆け付けてからは、一度も会話はできず、
眼も開くこともありませんでした。
死因は、多発外傷との診断でした。
以上、簡単ながら、経緯をご説明させて頂きました。

2012年10月19日金曜日

21日(日)下高井戸シネマ

若松プロダクションに若松孝二の怒号が響かない。
それでも、空間のそこかしこに
監督の声が響いているように感じる。
「めそめそするな、バカタレ!」
「このタコ!しっかりしろ!」

そして、明日から、下高井戸シネマにて
「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の上映が始まる。
21日(日)のトークイベントには
井浦新と満島真之介が予定通り登壇する。
監督の実体はないけれど、
この間、若松孝二と各地の劇場を周り
監督と共に登壇し続けてきた井浦新の中に、
初の若松組で監督の洗礼を浴びた満島真之介の中に、
若松孝二は息づいている。

そして、何よりも、作品の中に、若松孝二がいる。
「映画に時効はないんだよ。俺が死んでも作品は50年100年って残るんだから」
監督の言葉が、あのときには感じなかった重さで響いてくる。

2012年10月9日火曜日

若松監督、無事帰国

アジアの映画人賞を受賞した若松孝二が
無事、帰国した。
帰国の翌日は、柏市の商工会議所での講演を行い
本日は、いつもと変わらず、若松プロダクションの椅子に座っていた。
「マスタークラスでの講演会は、通訳の女性が涙ぐんでいたとの報告もありましたが
 監督はどんな話しをしたのですか」と聞くと
「連日、トークや取材の嵐だったから、もうよく覚えてないよ…」
 と言いつつ、
「若い頃に家出して、警察にぶち込まれた怒りが原動力だとか、
 今の原発の問題は、補助金漬けという根深い問題だ、ということを
 話したかな」
 と、振り返っていた。
 いずれにせよ、何十年と変わることなく、等身大の言葉で
 言葉と表現を続けて来た、若松孝二らしい講演だったのだろう。
 次の週末、監督は、井浦新とともに、函館映画祭へ向かう。

2012年10月6日土曜日

若松孝二のてのひら

昨日は、「海燕ホテル・ブルー」に引き続き
「11.25自決の日」「千年の愉楽」の上映とティーチイン。
それぞれ、詳しい情報は入ってきていないが、
恐らく、刺激的な会話が交わされた事と思う。
そして本日は、現地メディアの取材をこなした後
夕方から、若松孝二の「ハンドプリント」(=手形を押す)イベントが行われた。
釜山の地に、若松孝二の手形が残された。
監督の手は、労働者の手だ。
17歳で宮城を飛び出し、ニコヨン、和菓子やの丁稚小僧、あらゆる仕事をして来た。
そして、映像の世界に飛び込んでからも、バカマツと言われながら
下積みを経て、映画監督に。
監督になってからも、自ら交通整理をしたり
小道具の料理を作ったりと、手と身体を動かさずにはいられなかった。
以前、東京映画祭で「実録・連合赤軍」がある視点部門に招待され
レッドカーペットを歩くように言われた時
「映画作りなんて、偉そうに赤いカーペットを歩く商売じゃないんだ。
 俺は所詮、映画作りしかできないから、映画を創ってるだけだ」と言って
正装してカーペットを歩くことを断固として拒否した。
あれから数年の間に、ベルリンで銀熊をとり、
カンヌとベネチアに招待され、今回も釜山で名誉ある賞を受賞した。
歩けと言われれば、正装してカーペットの上も歩く。
取材も、求められれば応じる。
話せと言われれば、登壇する。
監督の周辺は一気に華やいだ。
しかし、監督の手は、やはり労働者の手だ。
ものづくりへの気持ちも、何も変わっていない。


井浦新から送られた、この写真を見ながら、
改めて思った。
そして、今夜、マスタークラス講演会に登壇している。

ものづくりへの思いを、どのような言葉で語るのか。
そもそも、語る言葉を十分持ち合わせないから
若松孝二は映像で表現するのであるが、
それでもなお、どんな言葉が飛び出したのか
帰国後の報告が楽しみである。

2012年10月5日金曜日

「海燕ホテル・ブルー」上映後、熱く語る!

再び、釜山より速報レポートあり。
先ほど、「海燕ホテル・ブルー」の上映が終了し
監督とキャストが登壇した。
と、井浦新より、最新の情報が入った。
井浦、自ら登壇しつつ、監督を激写。

観客からは、プールでの色の変化、カメラ目線で原発を語る意図などの質問のほか、
現金輸送車の強奪回想シーンの少女の傘と
梨花の番傘とのつながりについて、といった新しい視点での問いかけも。
監督、1つ1つの質問に、楽しそうに丁寧に答えているという。
3つめの質問は、なかなかに鋭い!
当初、現金輸送車にぶつかってしまった少女の魂として
梨花を描こうか、という案も出ていたのである。
しかし、それをそのままリアルに描くと、妙にオカルトっぽくなるので
監督が、最終的にその案を退けた、という経緯がある。
が、監督の頭にわずかに残っていたその余韻が
映像を飛び越えて観客に伝わった、という事に、やはり映像表現の醍醐味を感じる。
井浦に対しても、様々な監督と仕事をすると刺激になり想像力が豊かになるか?
との観客からの質問が出て、井浦自身も「熱く語ってしまいました」という。
もうすぐ、「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の上映が始まる。
韓国のお客さんたちから、どのような反応が飛び出すか
それに、監督や井浦らがどう応えるか、楽しみだ。

釜山からのフォト便り

先ほど、監督の現地メディアのロングインタビューが始まった。
監督の体調はすこぶる良好。
との連絡が、同行する井浦新より入った。



いずれもphoto by Arata Iura
昨晩の開幕式写真は大西信満撮影。
同行するキャストも一丸となって
釜山初参加の若松監督をサポートしてくれる。
若松塾の熱い仲間たちである。
この仲間たちあってこその若松組である。
と、改めて思う。

釜山映画祭にて、アジア映画人賞受賞!

昨夜、釜山のシネマセンターは、熱気と大歓声に包まれた。
第17回釜山国際映画祭が開幕したのだ。
そして、その初日の大舞台で、「今年のアジア映画人賞」という
栄誉ある賞を受賞したのが若松孝二。
夕方の飛行機で釜山入りした監督は
そのまま慌ただしく開会式の会場へ移動。
大観衆の前で、トロフィーを手にした。



本日の地元新聞は、若松孝二の受賞を大きく取り上げている。

本日は、午後から夜にかけて
「11.25自決の日」「海燕ホテル・ブルー」「千年の愉楽」と
3本の特別上映と舞台挨拶が行われる。
現地入りした、井浦新、片山瞳、大西信満らも監督とともに登壇する。