2006年11月28日火曜日

第一次鬼首ロケ終了

午前中、国民宿舎の近くの沢で、今回の撮影を終える。
シーンの設定は、妙義山籠沢の洞窟だ。そこは妙義ベースと呼ばれたが、まがりなりにも屋根と壁があったそれまでのベースとは異なり、天然の洞窟を人が座れるように掘り下げただけの場所だった。迦葉ベースから、榛名山を挟んでちょうど反対側にあたるこの妙義ベースに移動したメンバーは、下山していたリーダーの森と永田の帰還をここで待った。
だが、留守部隊のリーダー坂口たちが新たなベース建設地の調査に車で出かけようとしたとき、近くの林道で私服刑事の職務質問を受ける。彼らは運転手の奥沢と同乗していた杉崎を車に残して洞窟へ駆け戻り、杉崎たちがいわば囮として車に籠城して時間稼ぎをする間に、妙義山の山越えに出発する。

 じつは、そのとき東京から戻った森と永田も籠沢の近くに来ていた。しかし、森と永田も洞窟に着いたのは、ほんの数時間の差で坂口たち留守部隊が出発した後だった。そして、連合赤軍のリーダー森と永田はこの洞窟で逮捕される。このとき、森と永田が坂口たちと合流できていれば、その後の「あさま山荘」銃撃戦とは異なった展開になっただろう……。
第一回鬼首ロケの最終日には、厳冬期の山越えが始まり、「あさま山荘」への最終行程が始まるこの籠沢の洞窟こそ、ふさわしかった。
ロケ隊は、来年の1月下旬、鬼首の雪のなか戻る予定だ。
撮影は12月15日前後から一ヶ月あまり、東京都内と近郊に場所を移す。この撮影では、赤軍派が誕生し、革命左派(京浜安保共闘)と連合赤軍を結成するまでが描かれる。
実話も撮影も、この籠沢の洞窟がまさに分岐点だ。
午後1時過ぎ、スタッフは機材車などに分乗し、出演者たちは列車で、一斉に鬼首から引き上げた。



2006年11月27日月曜日

突然……

11月26日
鬼首ロケは、予定よりも一週間も早く終了することになった。予定していたシーンをほぼ撮り終えたためだ。

 今日は、鬼首の中心地から10数キロ離れた鎌内地区に造られた迦葉ベースのセットで撮影。セットは一度強風のために壊れ、立て直された。この迦葉ベースから連合赤軍の崩壊が始まる。



 
 今朝は寒かった。撮影開始は、午前9時頃。しかし、始まった撮影撮影は、「早撮りの若松」の名をしても信じがたいほどの猛スピードだった。ナイト・シーンをデイ・シーンに変えたりして、とにかく次々に撮影をこなしてゆく。あっという間にデイ・シーンを撮り終えた若松監督が発した言葉は、なんと「今回のロケは、今日中に終えるゾ」だった!! 
 じつは、この迦葉ベースでは3日間の撮影スケジュールが組まれていたのだから、スタッフだけではなく出演者も、呆然……。そして、再び怒濤の撮影が始まった。
森と永田が迦葉ベースから一時下山している間に、脱走者や部隊から脱落する者が出て、連合赤軍は思いかけない早さで崩壊に向かう。そして、最後に残った5人が「あさま山荘」に立て籠もる。その崩壊の過程をわずか1日で撮ってしまうのは、物語を膨らますカットやエピソードを省き、ストーリーを根幹となる必要最小限の要素で描こう、という意図があるからだ。

 撮影が夜になってから、総括を要求され死を予感する山本順一と妻保子の別れのシーンもあった。保子を演じた比佐廉は、そのシーンを終えてからもしばらく泣きやまなかった。
監督は、映画には「流れ」がある、という。つまりテンポやリズムのことだ。榛名ベースでの粛清から「あさま山荘」に至るその流れを止めたくないの                          で、あえて迦葉ベースのシーンは極限までそぎ落とされることになった。

こうして、この映画の鬼首ロケは、誰もが呆気にとられるうちに終了に向かった。
……ということで、明日(27日)、スタッフ出演者、全員が鬼首を離れる。



 
 
 

2006年11月25日土曜日

榛名ベース撤収

11月25日
約一週間続いた榛名ベースでの撮影も、今日が最終日。赤軍派の持原好子の逮捕と、革命左派(京浜安保共闘)の岩田の脱走で、榛名ベースを捨てざるを得なくなった連合赤軍は、約40キロ離れた迦葉山へ新たにベースの建設を始める。建設部隊が出払ったため、人数が減ってガランとした榛名ベースでは、総括を求められている革命左派の大槻節子と金子みちよが、柱に縛りけられている……。それが、今日の撮影の、トップシーンだった。
 


 今日の鬼首は、朝は冷え込んだが、日が昇ってからは一日中風もなく快晴。インディアン・サマーだ。撮影は快調。午前10時30分頃にはトップシーンを撮り終え、小屋の実際の解体に取りかかる。その解体作業を出演者たちが行うのも、映画のなかのワン・シーンだ。

 その後は、エキストラと呼ばれる使用未定のカットを撮影。

                                                                                                                                                                        
                                                                         
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この炎が目撃され、連合赤軍の包囲につながってゆく。
榛名ベースのセットがなくなって、山林に戻った現場にはまさに「夢の跡」を思わせる。連合赤軍は、果たして悪夢だったのか? 過酷な状況のなかで自滅していった彼らが目指したのは、いったい何だったのか? それが、この映画の撮影現場を見ていると、徐々に明らかになりつつある。

撮影終了後、撮影部とのミーティング兼夕食を終えた監督が、出演者やスタッフが泊まっている国民宿舎にやってきた。突然の監督の訪問に、みんな集まってきた。そう広くはないロビーで自然に井戸端談義が始まった。
明日は、鬼首の最深部ともいえる鎌内に建てられた迦葉(かしょう)ベースで撮影。連合赤軍の崩壊が始まる。

2006年11月24日金曜日

連帯感

11月24日
 今日の撮影開始は、午前8時半。
最大数28人を数えた出演者も昨日あたりから徐々に現場を離れ始め、
小屋の中から徐々に人が減ってゆく。 粛清や逃亡により人数が減っていった実際の榛名ベースも、こんな様子だったのだろうと思わせる。
今日のアガリ(撮影終了)は、午後3時過ぎ。比較的余裕があった。
連合赤軍の榛名・迦葉(かしょう)・妙義の各ベースで殺されたのは、合計12名。ほとんどの者が総括を名目に殺されたが、なかに2名だけ死刑を宣告された者がいる。革命左派(京浜安保共闘)の寺岡恒一、赤軍派の山崎順だった。だが、彼らが他のメンバーのように総括を要求されたのではなく、なぜ死刑だったのか、その理由はわからない。その二人の死刑が今日のおもな撮影シーンだった。
映画の撮影現場を支配しているのは、「時間」だ。もし、無限に時間があるのなら、この映画は成立しないだろう。どんどん進む若松監督の「時間」に、出演者たちも戸惑い気味だ。しかし、出演者たちの顔つきが変わりつつある。流れゆく歴史のなかで、「いま」をつなぎ止めるのがこの作品だ。その「いま」が、30年前のいまであったように……。
トラブル、アクシデント、インシデントその他が起きるのは当たり前だが、それ故に、現場ではこの作品作りへの一種の連帯感が生まれつつある。今日で出番を終えた出演者がセットを出て、現場を離れるとき、どこからともなく拍手が起きた。


 
 

二日分

11月22日
11月23日


22日、助監督の井上亮太の体調が崩れ、現場離脱。山を下り、病院へ。さいわい(?)午前中は「サツキュウ」だった。現場には衝撃が走る。だが、撮影は続行。
撮影の密度は、どんどん濃くなってゆく。監督が何を創ろうとしているのか、だんだん観えてくる。若松監督が、出演者に求めているのは、自分だ。キミ、オマエ、アナタが、そこにいたらどうするか……? 監督は問い続ける。
23日。この作品のクライマックス・シーンの撮影。坂井真紀が演ずる遠山美枝子に、ほかの出演者は涙ソウソウ……。濃密な時間、或いは時間の凝縮が映画だ。

この二日間、夜は山荘に女優さんたちを招いて夕食。ここにも凝縮された時間がある。

 
22日夜。右から宮原真琴(小嶋和子)、藤井由紀(大槻節子)、安部魔凜碧(金子みちよ)

 









23日夜。右から坂井真紀(遠山美枝子)、奥田恵利華(杉崎ミサ子)、比佐廉(山本保子)、神津千恵(中村愛子)


2006年11月22日水曜日

合計10シーン

今朝は午前5時出発で始まった。「5時出発」ということは、出発するスタッフの多くが午前4時起床と言うことだ。おもな作業内容は、ナイトシーンの撮影のために、榛名ベースのセットを黒いビニールシートで遮光することと、雨音を殺すために杉の葉をセットのトタン屋根に載せることだった。
若松監督は、午前3時半に起きて、監督自ら朝一番のシーンの撮影用にスイトンを作り始める。「いまの若い助監督は、スイトンの作り方も知らない!」と怒る事しきり。
































 午前8時、出演者現場入り。川霧が一面に立ちこめている。じつは前日、照明機材を積んだ2tトラックが故障し、スタッフは大慌てだった。キャメラマンの温厚な辻さんが、レンタカー会社に電話でまくし立てた、という……。
明日華ちゃんの母金野博美さんと、役上の母親
比佐廉(山本保子)→

 午前8時半、出演者が現場でイタに付く。監督は、今回の撮影では怒鳴らないと言っていた。だが、出演者たちの演技が始まると、その宣言はもろくも崩れる。この作品の撮影現場は。緊張感に満ちている。若松監督の演出のいちばん大きな特徴は、現場主義だ。現場で考え、イメージし、それが映像として結実し、作品が生まれてゆく。
















↑大西信満(板東国男)
↓迫真の演技に、メイキング担当の竹藤佳世も思わず涙


午前11時、早朝から準備したナイトシーン、終了。正午、昼飯。この時点ですでに4シーン取り終えている。午後1時過ぎ、撮影再開。ショート・シーンを3シーン撮影。午後2時半過ぎから、日没待ちに入る。監督自身は「少し、飛ばしすぎたかな?」と苦笑い。



午後4時半、撮影再開。かなりショートなシーンを3つ。午後6時過ぎ、撮影終了。
若松監督が今日撮ったシーンは、短いモノも含め10。ほかの監督にできることではない。この作品に対するイメージが、確立しているからだ。若松監督は思うままに怒鳴りながら、がむしゃらに撮影を進めてゆく。その力強さやスピード感が、若松作品の特徴でもある。
予想したとおり、ハードな一日になった。


↓坂井真紀(遠山美枝子)

2006年11月20日月曜日

サツキュウ

午前中は、サツキュウ(撮影休止)。鬼首は望んでいる雪ではなく、冷たい雨が降っている。撮影は午後2時から1シーンのみ。榛名ベースで一番最初に死んだ尾崎光男の総括シーンだった。
デイライト(昼間の明るさ)がなくなった頃、若松監督は車で20分ほどの鳴子温泉を訪れた。明治40年頃から続くお菓子屋さん「たまごや」の宮本さんが、ぜひ若松監督に会いたいというのだ。宮本さんは団塊の世代。宮本さんが東京で洋菓子の修行をしている頃、「あさま山荘」の銃撃戦が起きたという。
この連合赤軍の映画を、監督はおもにその時代を同時代として生きた団塊の世代と、その子供たちの世代にぜひ伝えたいと思っている。そういった意味で、山間の温泉町にもこの映画に関心を持っている人がいるのは心強い。

 

















   







                  
                   



同志の連続粛清がはじまった

榛名ベースのセットが黒いビニールシートに包まれている。小屋のなかでナイトシーンを撮影するためだ。それは、小屋そのものよりもさらに異様な光景だ。そして、そのなかからの罵声や悲鳴が聞こえてくる。榛名ベースで始まった同志の粛清だ。




 撮影は佳境に入っている。スタッフを含め40人近くが詰まった小屋のなかには、重苦しい緊張感が漂う。セットの大きさはほぼ実物に近い。厳寒の季節、その狭い掘っ立て小屋で30人近くの人間が暮らし、仲間を次々に殺していった姿がありありと浮かぶ。
意外と忘れがちなのは、同志の連続粛清が起きたこの榛名ベースに、生後間もない赤ん坊がいたことだ。それは、革命左派の山本順一・保子夫妻の娘で、生後一ヶ月足らずの頼良だった。その頼良として登場するのは、山本順一を演じる金野学武の実際の娘明日華ちゃん。明日華ちゃんは、母親の博美さんとともに一家でロケ現場へやって来た。
 撮影終了後、若松監督が泊まっている山荘に、連合赤軍の幹部役たちを集めてミーティングを兼ねた夕食。現場とは打って変わりうち解けた監督や、役柄からはうかがえぬ一面を見せる出演者たちに、空気が和む。そんななか、吉野雅邦を演じる莵田高城が、役作りのために千葉刑務所に無期懲役囚として収監中の吉野に手紙を書いたことを話した。その手紙のなかで、吉野は面会したいという莵田に「映画のなかでお会いしましょう」と答えたという。
 突然、台所が騒がしくなった。大友プロデューサー補がウィンナーソーセージの袋をあけようとして、誤って自分の指の先端を切り落とし、負傷。ただちに、山を下りて町の病院へ。幸い重傷ではなかったが、戻ってきた白い包帯姿が痛々しい。大友は監督の補佐役として、撮影現場を取り仕切っているだけに、心配だ。
























左から、地曳豪(森恒夫) ARATA(坂口弘) 莵田高城(吉野雅邦) 竹藤佳世(メイキング撮影) 若松孝二監督  並木愛枝(永田洋子)

2006年11月18日土曜日

「榛名ベース」への移動


榛名ベースへ移動。
昨日まで撮影が行われていた新倉ベースのセットから、約200メートルほど離れた杉林の中に、榛名ベースのセットがある。新たに9人の出演者が到着し、今日からはその榛名ベースでの撮影が始まった。撮影スケジュールは前倒しで進んでいる。
榛名ベースでの同志粛正は、「あさま山荘」の銃撃戦に至る重要なプロセスだった。警察の情報操作により、粛正は銃撃戦のあとに発表され、銃撃戦の存在をかすませてしまったが、彼らが酷寒の「あさま山荘」で10日間も持ちこたえたのは、彼らにその同志粛正に対する負い目があったからだった。
榛名ベースのセットは陰鬱で、どこか恐怖すら覚える。人間が次々に殺されてゆく場所、そのものだ。そこで、今回の撮影は山場を迎える

現在の出演者は総勢27人。宿舎の国民宿舎は貸し切り状態だ。先に現場に入っていた出演者たちが、談笑する光景も見られるようになった。その交流がシナリオ上の幹部同士、兵士同士で深まっている点が面白い。
お詫び:担当者の都合により、明日(11月18日)の掲載はお休みします。


 



2006年11月16日木曜日

山奥に響く「インター」

11月15日
 午前7時半。天候、晴れ。「新倉ベース」での撮影、始まる。昨夜の雨で、現場から見上げる山の頂が白く染まっていた。現場には、出演者たちの控え室用に天幕が張られている。昨夕、現地入りした出演者たちは、緊張の面持ちだった。
ファースト・カットは、赤軍派と革命左派(京浜安保共闘)の共同軍事訓練に先立つ全体会議。出演者たちのその緊張が、実際にこのとき初めて顔を合わせた連合赤軍のメンバーにふさわしい。この共同軍事訓練は、赤軍派の森と、革命左派の永田による主導権争いの場でもあった。






共同軍事訓練のシーンは、若松監督の経験が生かされた。監督は、1970年「赤軍-PFLP 世界革命戦争宣言」の撮影の折、レバノンでPFLPの軍事訓練を経験している。この軍事訓練の撮影の半ばから、雨が降り始める。山の天気は、この映画の撮影同様、変化のテンポが速い。
昼飯は、現場に配達された弁当。

 午後、連合赤軍の主導権を握ろうとする革命左派による、赤軍派への巻き返しが起きる……。それに利用されたのが、赤軍派メンバーだった遠山美枝子だった。遠山を演じる坂井真紀は語る。
「私は、〈女性〉という問題に興味がありました。日本赤軍の重信房子さんなどは、機会があれば演じてみたいとずっと思っていました。若松さんと知り合い、その重信さんの親友だった遠山さんが主人公の一人となるこの映画の話を聞いて、これこそやりたい、と思ったのです。いま、どんどん自分が遠山さんに引き込まれいるのを感じています」
屋根を叩く雨脚の音で中断する場面もあったが、撮影は午後5時頃終了。皮肉もそのときは、再び星のきれいな晴れ空だった。

そして、午後8時、静かな山里にときならぬ革命歌「インター・ナショナル」が、響き渡った。出演者たちによる、明日のシーンのための歌唱練習だった。時と場所を超えて、かつての若者たちの聖歌「インター」が響き渡る……。ここ鬼首に、映画という〈異空間〉が出現しつつある。